<13日目ー10>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊…
<13日目ー9>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑…
<13日目ー8>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度.。マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰…
<13日目ー7>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑…
<13日目ー6>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑…
<13日目ー5>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑…
<13日目ー4>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑…
<13日目ー3>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。その中で、遥かエーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰…
<13日目ー2>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度マンダレーを出て、郊外の古都ザガインやアマラプラを巡っている。<ザガイン・ヒル Sagain Hill>アマラプラからエーヤワディー河を、新しいインワ鉄橋(Ava Bridge) を渡ってザガイン(Sag…
<13日目ー1>2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度<おいおいこのホテルは大丈夫?>6:30に起きる。昨日の疲れが残っている。ずっとバイタクに乗っていたので、腰が痛い。出来れば今日はホテルでユックリしていたいなぁ。 7:00に朝食。昨日と…
<12日目ー3>2017年 6月2日 金曜日 マンダレー 晴れ 暑い36度。朝からバイタクの後ろに乗って、マンダレーヒル、旧王宮と廻って来た。<マハムニ・パヤーで金箔を貼る>王宮前の78th.Rd.を南下して途中から西に折れる。マハムニ・パヤーはマンダレーの南…
<12日目ー2>2017年 6月2日 金曜日 マンダレー 晴れ 暑い36度。朝からバイタクで、マンダレーヒルに登った。<バイタクでマンダレーの旧王宮に向かう>マンダレーヒルから降りて来た。再びバイクの後席に跨って、来た道を戻って旧王宮に向かう。一辺3km…
<12日目ー1>2017年 6月2日 金曜日 マンダレー 晴れ 暑い36度。朝食時、レセプションで山の様なランドリーを依頼。朝食は、ビュッフェスタイルで品数は少ないが、中華系のゲストハウスらしく白いお粥がある。このところの私のナーバスな胃袋にはぴったり…
1859年5月23日、ミンドン・ミン王が受けた「仏陀の予言」に従って、標高236mのマンダレーヒルの麓に建設されたのがマンダレーだ。市内は碁盤目のように区割りされていて、どの通りにも番号が付いている。
ゲートで搭乗の列に並び遅れたばかりに、バスでは扉の前で立っているしかなかったが、そのせいで飛行機の窓から蛇行して流れるエーヤワディー河や、平原の中にいくつも建っている金色のパヤーの姿を存分に眺めざるを得なくなった(笑)
フェリー乗り場の待合室から川面を眺めている。川風が心地よい。大きく、意外にも新しい綺麗なフェリーが、沢山の乗客を乗せて行き来している。ここを発着するフェリーは、ヤンゴン中心部から道路が繋がっていない対岸のダラ地区(Dala)と結んでいるが、少…
マハバンドゥーラ通りの先に、黄金に光るスーレー・パヤーが見えて来た。スーレー・パヤーはヤンゴンのダウンタウンのランドマークだ。ストゥーパには珍しく八角形のモン族スタイルの塔で、高さは48mある。
大渋滞の中、タクシーはノロノロとマハバンドゥーラ通り(Mahabandoola Rd.)を東に向かう。周囲は7、8階建てのアパートが立ち並んでいる。元はコンクリートや煉瓦色だったと思うが、既に古色蒼然として色が無く、代わって長年の風雨で黒ずんでいる。
大雨のせいで大混雑のタクシー乗り場でようやくタクシーを捕まえたら、ホテル迄5,000ksだと。此処からでは余りに高すぎると思ったが、他に探すのも面倒なので乗り込む。ボージョー・アウン・サン通りは、雨と夕方のラッシュで大渋滞だ。
切符売り場を捜して辺りを見渡していると、何処からか粗末なシャツを着た黒目がちの利発そうな小学生位の女の子が寄って来て、ホームの先にある小さな小屋を指さしてくれる。「thank you !」と言って小屋に行く。「circle、ticket、please」と言えば、ペラペ…
外に出ると、一面白い大理石の広大な敷地の中に見渡す限り大小の仏塔が立ち並び、それぞれの塔に穿かれた祠があり、その中に仏像が祀られている。雨季の最中で、さっきまで土砂降りだったのに、綺麗に着飾った老若男女が驚くほど沢山歩いている。
タクシーの車体はニッサンの古いADバンで、ミャンマーは右側通行だが右ハンドルの日本仕様のままだ。そのため時々車が、日本語で「ETCカードが入っていません」とアナウンスする。もちろんミャンマーにはまだETCそのものがないが。
ヤンゴン郊外のアウン・ミンガラ・バスステーションだ。雨が降っている。到着して降りようとすると、バスの脇には男の客引きがいっぱい集まっていて、押し合いへし合いしながら、何処に行くんだと叫んでいる。
これからミャンマーの何処を周れるだろう?何といってもミャンマーは広い。いままでは、何処に行きたいかより何処を外さなければならないかで悩んでいたが、今度の病気で、反対に行ける範囲が狭くなった。
早朝の未だ暗いうちから下痢と吐き気が始まった。下痢は、固形物は最初だけであとは水ばかり。10分措きにトイレに行く。出て手を洗うと、また行きたくなる。頼んでおいた、バスターミナルまで送ってくれるタクシーが待っているが、身体が動かない。
モウラミャインに着いたらと、2つのことを頼んでみた。1つは腕時計の電池の交換、2つ目はiPhoneに入れるミャンマーのSIMカードの取得だ。実は日本にいる間に、iPhoneのSIMロックを解除していたのだ。
陸続きの国なら、なるべく陸路で国境を越えたいと思っていた.。それがある時、タイから陸路での入国が可能だと知ってから、俄然行ってみたくなったのだ。この国境が外国人にも開かれた背景には、テイン・セイン政権時代の民政化による改革の他に、実は2012年…
1942年(昭和17年)陸軍の第33師団(弓・仙台)、第55師団を基幹とする第15軍主力が1月20日にタイのメーソートから国境を越えた。ビルマ独立義勇軍(BIA)も日本軍に同行し、共に前進した。BIAの参謀だったアウン・サンはAung San)は、この時26歳だった。
「南方作戦」の最終目標であった蘭印資源地帯への作戦は、以下の様に始まった。陸軍第16軍(主力は第2師団、坂口支隊)と、のちに支那派遣軍の第23軍から1942年1月4日に第16軍の戦闘序列に入った第38師団(沼・名古屋)と、第14軍から第16軍の戦闘序列に入っ…
第二次大戦(対英米戦)において日本軍の最初の攻撃は、実は「真珠湾攻撃」ではなく「南方作戦」(「あ」号作戦)のうち、「E作戦」(マレー作戦)からだった。1941年12月8日,午前1:35、第18師団隷下の侘美支隊5,500名が英領マレー半島のコタバル(Kota Bh…