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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <72> まだまだ21日目 アウン・サン博物館④ つづく軍政の時代 社会主義と軍政

<21日目ー4

2017年 6月11日 日曜日  ヤンゴン 雨 時々曇り 27度。
ヤンゴンのカンドーヂ湖(Kan Daw Gyi Lake)の北にある、ミャンマー建国の父と呼ばれるアウン・サン将軍の生前の住居だった、アウン・サン博物館(Bogyoke Aung San Museum)に来ている。
雨季に入って、ヤンゴンは連日雨だ。。

<ビルマ連邦社会主義共和国(後期ネ・ウィン政権) 1974年~1988年>
1962年3月、クーデターを起こして政権に就いたネ・ウィン大将の軍事政権は、極端に内向きの計画経済体制をとり、国内の社会・経済に矛盾が噴出していた。

このため、1974年にネ・ウィンが大統領に就任し、軍の革命評議会が「ビルマ社会主義計画党」に権限を委譲すると、今度は国有企業に一定の経営自主権を与え、農民にも、生産意欲を持たせるため、農産物供出価格の引き上げを実施。
外国からの援助資金受け入れも再開した。
このため1986年の段階で、製造業の約50%、運送業の約60%が民間企業になり、商業やサービス業でも民間企業が過半数を超える様になった。

主要産業の国有化率は、1986年で、農業はほぼ民間、畜産や漁業も同様だが、チーク材などの林業は約40%が国有企業、商業も約35%、運輸も約35%が国有企業だ。
一方、鉱業約90%、電力100%、通信100%、建設約90%、金融約100%など主要産業はほぼ全てが国有企業だった。
農業は90%以上が民間だったが、計画栽培、農産物の供給制限で厳しい管理下にあって、市場メカニズムは殆ど機能していなかった。
国内で十分な商品が生産できず、密輸品が消費経済の主役で、40%はタイから流入し、中国国境を越える密輸品もあった。
国民は品ぞろえの悪い国営百貨店を避け、ミンガラ(Mingalar)市場が賑わったらしい。

1988年、厳しい統制と経済の停滞、社会の閉塞状況の中で、3月頃より国内では学生を中心に反政府デモが頻発する。8月8日にはゼネストとデモが起こるが、国軍が民主化運動を弾圧し、数千人の死者が出る事態に拡大した。

<再び国軍のクーデター(ソウ・マウン、前期タン・シュエ政権) ビルマ連邦からミャンマー連邦 1988年~1997年>
1988年9月18日、民主化運動に危機感を感じたソウ・マウン(Saw Maung)参謀総長の国軍が再びクーデターを起こす。
「国家法秩序回復協議会」(SLORC State Law and Order Restoration Council)を結成。
議長は、タン・シュエ(Than Shwe)。
総選挙の実施を公約。
これに反応して、建国の父「アウン・サン」の娘、アウン・サン・スー・チー(Aung San Sou Kyi)を書記長とする「国民民主連盟」(NLD National League For Democracy)結成された。

1989年、国名の英語表記を、「Union of Burma」から「Union of Myanmar」に変更。1988年「外国投資法」で、市場経済化、対外開放政策に舵を切る。
1989年「国有企業法」で、政府が独占的に行うべき12分野を列挙して、それ以外の分野に民間企業の参入を認めた。
この結果、外国から不動産や観光関連に投資が流入。一部の鉱業分野では、民間資本が採掘権を得る様になった。また政府が独占的に行う分野の金融業でも、1990年の「金融機関法」で民間銀行の設立が認められ、20行以上が設立された。
しかしこれらの政策は、結果的には、国庫は資源輸出で潤い、市民は物価上昇で苦しむこととなり、政権に近い富裕層は一層富んで格差が更に拡大する結果となった。

1990年5月の総選挙で、NLDと民族政党が圧勝した。しかし軍部は民主化勢力を弾圧し、政権を譲らなかった。
1991年、都市名や河川名などを変更。

旧サルウィン河から名称変更でタンルウィン河になった河の浮桟橋に係留された貨物船


<ミャンマー連邦 軍政(後期タン・シュエ政権) 1997年~2011年>
1997年5月、ASEANに加盟。
1997年7月にタイから始まったアジア通貨危機(Asian Financial Crisis)によって、ミャンマー国内の民間、外資主導の市場経済化は大きく後退した。
これはミャンマーへの外国資本の直接投資の激減と、通貨危機によってタイやインドネシアがIMFや外国の債権者からの政策介入を受けるのを見て、建国以来の外国からの自立と言う本能的な防衛反応が働いたためらしい。
このため、軍事政権は「市場経済」の体裁は残しながらも、経済活動のあらゆる部分に介入し、規制を掛け、全体の統制を強めて行った。

1997年に、1988年9月のクーデターで出来た「国家法秩序回復協議会」(SLORC)が廃止され、新しく「国家平和発展協議会」(SPDC State Peace and Development Council)が設立された。
この下で、「貿易政策評議会」(Trade Policy Council)が組織され、必需品以外の輸入禁止や、輸出には輸出税が導入された。
これらの施策は、外貨の流出を抑え、外貨収入を政府に吸い上げる政策だった。

1997年、「国家企業法」改定。
軍による100%子会社MEC(Myanmar Economic Corporation)、およびUMEHL(Union of Myanmar Economic Holdings)を設立し、収益性の高いビジネスの多くを政府から移管し、形は国営から民間に移管された様にした。
これらの持ち株会社によって、特権的に設立された「Crony」(仲間、取り巻き)と呼ばれる、軍と密接な繋がりを持つ新興ビジネスグループも多く作られてきた。

この動きは、政府の優良資産を、軍関係者が経済の自由化直前に、私物化しようとしたものだとの見方もある様だ。
発展途上国でありがちな政権の腐敗は、社会主義時代のビルマではある程度抑えられていたが、この時期になって軍は特権的な経済管理によって利権を得る様になっていたと言われている。

この時期、その動きを加速する様な事態は、2000年から本格化した天然ガスの輸出ではないだろうか。