歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <74> まだまだ21日目 ヤンゴン日本人墓地にて 日本人捕虜の扱い

<21日目ー6

2017年 6月11日 日曜日  ヤンゴン 雨 時々曇り 27度。

<ヤンゴン日本人墓地>
ミャンマーの旅最後の日、アウン・サン博物館を出た後、タクシーのドライバーに、買い物をしたいと言ってインヤー(Inya Kake)湖畔のミャンマー・プラザに回って貰い、また昼食にKFCを食べる。4,000Ks(約320円)。

この旅の最後に、ヤンゴン郊外の、昔のミンガラドン飛行場だったヤンゴン国際空港(Yangon International Airport)に近い、イエイウェイ(Yay way)にあるヤンゴン日本人墓地(Yangon Japanese Cemetery)に行く。
此処は5月28日にモウラミャインからバスで着いた、アウン・ミンガラ・ハイウェイ・バスステーション(Aung Mingalar Highway Bus Station)の裏手にあたるが、タクシーのドライバーも場所が良く分からず、たびたび降りては近所の人に聞きながら行く。
広い斎場「Yay Way Cemetery」の前を通り過ぎ、一旦Innwa Rd.まで出て仕舞ったが、どうも行き過ぎた様だとまた戻って、漸く辿り着いた。

斎場「Yay Way Cemetery」の前を過ぎる

この日本人墓地は、捕虜収容所のあったタモエとチャンド―の日本人墓地が、1998年現在の住所オカラッパに移設されたものだと石碑に描かれている。
場内には日本政府による平和記念碑の他、第二次大戦時ビルマの地で亡くなった兵士の所属部隊による沢山の慰霊碑がたっている。
墓地内に人はおらず、ひとりで広い園内を歩く。

碑に額ずいていると、何処からともなく現れた墓守りの老婦人が、線香に火を付けて渡してくれた。
園内はきれいに整備され、鮮やかな熱帯の花が咲いている。植物の繫茂する熱帯の地で、このように綺麗に整備していてくれるのは大変だろう。
多くの人と同様、私も心付けを置かせて貰った。

墓地の中は、きれいに整備されている

 

日本政府による平和記念碑

安兵団(第53師団・京都)兵士の墓

日本人墓地のアリアケカズラの花

日本人墓地のハイビスカスの花

日本人墓地に咲いていたヤエサンユウカの花


<日本兵捕虜収容所>
日本の敗戦で、降伏した日本兵はどうなったのだろう。多くの日本兵や軍属のお墓を巡りながら思った。

日本の敗戦後、イギリス軍の日本人捕虜への扱いは苛酷を極めたらしい。イギリス軍の報復だったのだろう。
1945年8月15日時点でビルマに居た将兵の数は、旧厚生省援護局の調べでは、陸軍約71,400名、海軍約1,000名で合計71,500名(数が合わない?)とされている。これはアジア各地に於ける日本兵約334万名の約2%に当たる。

イギリス軍は、日本人捕虜を通常ジュネーブ条約で言うところの「捕虜」(戦時に拘束された兵)としては扱わず、「JSP」(Japanese Surrendered Personnel)、「降伏した日本人」の様な特別なカテゴリーを作り出して、JSPキャンプ(捕虜収容所)に入れた。
8月15日終戦後の降伏後は既に「非戦時」だから、「捕虜」に当たらないという屁理屈なのかもしれない。
その上で、ジュネーブ条約で禁止されている多くの労務を強いた。

労務は、自動車道路の建設、鉄道工事、埠頭の荷役、糞尿処理、墓地に仮埋葬された腐乱死体の移動など、厳しい肉体労働と劣悪な環境の使役が主だったらしい。
この中で労務による死亡率が高かったことが言われている。

このJSPキャンプ(捕虜収容所)はミャンマー各地に作られたが、ヤンゴンの捕虜収容所については2つあった。
ひとつが「ビルマ・ラングーン地区アーロン日本降伏軍人収容所」(Ahlone concentration Camp)で、ビルマ川沿いのラングーンの塵埃糞尿集積所と道一つ隔てた場所に在り、凄まじい悪臭と蠅が襲って来る場所だったと、捕虜として収容されていた会田雄次氏の著書「アーロン収容所」に書いてあった。
もう一つは、ヤンゴン中心部から北に10Kmの、イギリス植民地時代にヤンゴン市内に水を供給するために作られた人造湖である、ビクトリア湖(現インヤー湖 Inya Lake)の側にあったコカイン収容所だ。
此処のJSPキャンプ(捕虜収容所)も、家畜の放牧場に接し、特に集中的な放尿所の側だったらしい。

JSPキャンプ(捕虜収容所)は周囲は鉄条網で囲われ、宿舎は竹の柱、竹かニッパ椰子の屋根、アンぺラで囲った仮小屋で、宿舎内には床は無く、土の上に枯草を敷くか軍装品の携帯天幕を敷いていたらしい。
食料はギリギリの配給のため常にひもじい状態で、マラリアやアメーバ赤痢の流行があっても蚊帳も薬も無い状態だった。

当時の日本軍兵隊が持っていた携帯用天幕

それでも多くの日本兵が1年以内に帰国できたところ、東南アジア連合国軍SEACは日本兵の中から「作業隊」を選び、使役の上、帰国を遅らせるなどしたと言われている。
これは同様の使役である「シベリヤ抑留」を大規模に行っていた、社会主義国家スターリンの支配するソビエト連邦(現ロシア)を非難するアメリカが、自由主義国家側も同じ行為を行っていると非難されないため、イギリスやオランダなどに中止するよう再三要請したが、かまわず続けられた。