歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <69> 21日目 アウン・サン博物館① アウン・サンと独立を目指すビルマ

<2日目ー1

2017年 6月11日 日曜日  ヤンゴン 雨 時々曇り 27度。


<アウン・サン博物館>
午前中、パッキング。11:30、2度目のホテル・バホシ(HOTEL BAHOSI)をcheckout。追加料金は無し。

ホテル・バホシで最後の朝食

レセプションで依頼したタクシーで、シュエダゴン・パヤーの東の、カンドーヂ湖(Kan Daw Gyi Lake)の北にあるアウン・サン博物館(Bogyoke Aung San Museum)に行く。

ボージョー・アウン・サン(アウン・サン将軍)はミャンマー建国の英雄だ。
今のNLD(National League for Democracy)政権の国家最高顧問アウン・サン・スー・チー(Aung San Suu Kyi)さんのお父さんで、この博物館は、ミャンマー独立直前の1947年7月に彼が暗殺されるまで、家族で住んでいた住居だ。

入場料は5,000Ks(約400円)。
住宅が立ち並ぶ一角で、瀟洒な二階建ての洋館だ。
やはり洋館の博物館と言えど、家の中へは靴を脱いで入って行く。これはミャンマー式みたいだ。
館内には将軍や、1942年に結婚した妻キンチーさん、子供たちなどの家族の写真が飾られ、子供部屋にはスー・チーさんたち3人の子供の小さなベッドが置かれている。
スー・チーさんは最年少で、アウン・サン死亡時はまだ2歳1ケ月だった。

アウン・サン博物館、アウン・サン将軍の旧宅跡

アウン・サン将軍の写真が飾られた室内

アウン・サン・スー・チーさんたち3人の子供用ベッドが置かれた部屋

アウン・サン将軍夫人のキンチーさん


<日本軍の降伏後のビルマ>
1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、軍は戦闘を停止した。
日本の降伏と共に、日本軍のもとで1943年8月1日に誕生していた「ビルマ国」は消滅し、再びイギリス領ビルマとなった。
「ビルマ国」の首班だったバー・モウは、タイ経由で日本に亡命していた。日本本土占領軍のGHQ(General Headquaters of the Supreme Commander for the Allied Powers 連合国最高司令官総司令部)に出頭したが、罪は問われず、1945年8月にビルマ(現ミャンマー)に帰国していた。

バー・モウとアウン・サン(靖国神社遊就館)

1944年8月、当時「ビルマ国」の国防相だったアウン・サンは、日本軍の敗色が濃くなると、自らが副総裁だったタキン党や、共産党、ビルマ国民軍(BNA)を結集して、秘密裏に反日組織「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL Anti-Fascist People’s Freedom League),別名「パサパラ」(Hpa-Hsa-Pa-La)を結成した。
1945年3月27日、アウン・サンはビルマ国民軍(BNA)全軍に、「ビルマ国」バー・モウ政権への反乱を命じ、BNAは日本軍へ全面攻撃を開始した。

BNA反乱開始の少し前、1945年(昭和20年)3月22日、アウン・サンは顧問で監視役でもあった日本軍将校に何も告げず、密かにラングーンを脱出し前線へと向かっていた。
そして5月16日、アウン・サン少将は、今度は日本軍に対する反乱軍のリーダーとして登場し、1943年8月に連合国軍内に創設された東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官のルイス・マウントバッテン中将(Louis Mountbatten)と会談していた。
此処で、ビルマ国民軍(BNA)を「ビルマ愛国軍」(PBF Patriot Burmase Forces)と改称して、連合国軍の指揮下に入れることで合意した。その後6月以降は連合国軍の命令下に入って日本軍と戦っている。

<独立への期待と終戦後の模索>
1945年(昭和20年)8月15日、日本の降伏によって戦争は終結した。
しかし期待を抱かせた戦争勝利後の独立の夢はかなわず、ビルマは再び植民地のイギリス領ビルマに戻った。

最初はヒューバート・ランス将軍(Hubert Rance)のもと、イギリス軍による軍政が敷かれた。
ビルマ復興には英国資本のビルマ復帰が不可欠として、戦争の為荒廃したインフラ、特に鉄道、道路、ラングーン港のドック整備など、交通網の復興に力が注がれた。
このイギリス軍による軍政が敷かれる中、ドーマン=スミス(R.Dorman-Smith)ビルマ総督が、戦争中シムラー(Shimla)に置かれていた亡命ビルマ政府と共に、ビルマ本土に戻ってきた。

シムラーは、インド西北部のヒマラヤ山脈の麓にある町で、イギリス領インド帝国時代の避暑地で、1865年にインド帝国の夏の首都と定められて以来、夏季には首都機能がカルカッタから移転させられていた場所だ。

戻って来たビルマ総督に対し、アウン・サンらのパサパラ(反ファシスト人民自由連盟 AFPFL)は、即時独立の実現を求めたが、総督からは戦後ビルマの自治領復帰へのプロセスを示した「ビルマ白書」が提示されただけだった。
それは、軍政から民政への復帰、ビルマ総督による3年間の直接統治、そして1937年の「ビルマ統治法」体制への復帰、その後自治領化の準備をするというものだった。

さらに総督の諮問機関として、4名で構成される「執行会議」(Executive Council)を作る旨通告された。4名の内2名は英国人官吏、他の2名は総督に従ってインドに亡命したビルマ人だった。
パサパラは、執行会議をビルマの国民政府樹立までの過渡的な中間政府に改組すべきと主張した。これは、当時英領インド帝国ではインド総督によって、独立までの過渡的な政府として、インド人による中間政府が作られることになっていたことを念頭に置いたものだった。しかし、パサパラの主張は、却下された。

ビルマ総督下で民政化されたが、行政府は機能不全に陥っていた。
これは日本軍の進攻によって、旧英国植民地政府のインド人官吏がインドに逃亡している間の3年間、行政は、日本軍政下で成立した「ビルマ国」の、ビルマ人官吏によって行われていた。しかしそのビルマ人官吏は、イギリスが戻ってから全員資格審査され、イギリスに忠実でないものは職を奪われ、逆にイギリスに忠実だというだけで行政経験の少ない人が官吏に抜擢されていたためだった。

また軍では、1937年の「ビルマ統治法」施行以前は、ビルマ人は軍隊に入ることは禁止されていたため、施行後もビルマ人で軍隊に入るものは少なかった。
しかし戦後、日本軍政下で誕生した「ビルマ国民軍」(BNA)の流れを汲む「ビルマ愛国軍」(PBF)には多数の兵士がいた。
ビルマ総督は、イギリスに忠実であるとの考えから、英語のできる者を選別してビルマの正規軍に登用した。一方、実践経験が豊富でも、英語のできないものは失格となった。
このため、パサパラのアウン・サンらビルマ人指導者は、失格となった人たちを、警察や、経済復興隊への登用を進言した。戦争の為荒廃した道路や河川の堤防などの復旧に必要と考えたためだった。
しかしこれも却下されたため、彼らはアウン・サンらの私的軍隊である「人民義勇軍」(PVO People’s Volunteers Organization)として、各農村に配置された。
これは当時跳梁跋扈していた武装強盗団「ダコイト」(dacoit)から村を守る為との名目で、農村に駐屯し、兵士の給与や補充も村から受ける様になっていた。

1945年8月、ビルマ総督は、物資の配給や輸送の全権など、事実上ビルマ経済を掌握する「民間配給局」(Civil Supplies Board)を作った。支配する5人の幹部は、イギリス人4人とインド人1名で、此処にもビルマ人は含まれなかった。
また日本の軍制下や「ビルマ国」では、インド人不在地主の土地を耕していた者は、そのまま耕していて良いと布告したため、ビルマの農民は土地を手に入れ、古い債務から解放された。
しかし、スミス総督政府が復活すると、これを否定してインド人不在地主の権利を認める法令を発布したため、ビルマの農民は再び土地を失い、古い債務が復活していた。ビルマ人の小作人は、再び1年ごとに耕作地を変えて、各地を転々とする様になっていた。
このため、ビルマ全土で工場、鉄道、郵便、新聞、官庁、警察までもストライキが起こった。農村部では、武装強盗団「ダコイト」が跋扈していた。

しかし、戦後のイギリスにはこうした混乱に対し、治安維持のため兵力を投入する余力が無かった。戦争によって多くの海外資産や商船隊を失って経済は疲弊し、アメリカから莫大な借金をする様になっていた。
またインド独立問題の激化で、今までの戦争で使って来たインド植民地軍のインド兵は使えず、逆に鎮圧する相手のビルマ人は、戦争によって多くの武器を持つようになっていた。
またパサパラを弾圧しようとしても、ビルマの農村部にはPVO(人民義勇軍)が配されているため、弾圧も出来なかったのだ。

ビルマ総督はビルマ人団体と協力するしか道が無くなっていた。しかしその相手を、ビルマの独立を目指しているパサパラではなく、旧GCBA(ビルマ人団体総評議会)系の人たちを活用しようと考えていた。
そのため、1946年2月、ウー・ソオをウガンダの監獄から解放して、ラングーンに送り返した。
ウー・ソオ(U Saw)は、1940年9月から英領ビルマの自治政府の第3代目の首相だった人だ。
英国が日本との戦争に突入する可能性が出てくると、ウー・ソオはイギリスに戦争協力の姿勢を見せて、ビルマ独立を申し入れるが拒否される。
しかし1941年(昭和16年)12月8日、日英の開戦を知ると、一転して日本側と接触して独立への協力を得ようとしたが、これをイギリス側に知られ、捕らえられて1942年1月首相を解任され、1946年1月まで東アフリカの英領ウガンダのボンボの監獄に抑留されていたのだ。

一方、パサパラ内でもビルマ独立に関する方法の相違で、分裂が起きていた。
1946年3月、ビルマ共産党のタキン・ソー(Thakin Soe)のグループ(後の赤旗共産党)は、パサパラを離脱し、アラカン地方で武装蜂起を掲げて活動を始めた。
1946年7月には書記長のタキン・タントゥン(Thakin Than Tun)が辞任した。