2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧
1941年(昭和16年)12月18日「三十人の志士」たちを中心に、タイ在住のビルマ人約200名で「ビルマ独立義勇軍 BIA (Burma Independence Army)」を結成する。ここには南機関員や義勇兵など日本人74名も参加。日本軍から支給された小火器で武装していた。
1930年(昭和10年)5月には、反英組織「われらビルマ人(ドバマ)協会」(タキン党 Thakin)が結成された。これはメンバーが、ビルマ人がビルマの本当の主人だとの意味から、お互いを「タキン(主人)」と呼び合っていたためらしい。
「南方作戦」の概要を、「第一復員局」の「南方軍作戦記録(比島、緬甸、濠北、ボルネオ)」で見ると、以下のようだ。作戦方針は、「南方軍は聯合艦隊と協同し、比律賓(フィリピン)及び英領馬來(マレー)に対する先制急襲を以て、同時に作戦を開始し、勉…
1940年(昭和15年)7月26日、米英は日本資産の凍結。8月1日、アメリカの対日石油禁輸措置。オランダ領東インド(植民地)政府も日本との石油協定を破棄した。当時の日本の石油の対アメリカ依存度は、全体の約77%。その他はオランダ領東インド(現インドネシ…
1931年(昭和6年)9月18日夜10:30、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された。関東軍は張学良の「東北辺防軍」による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。
しかし、何故日本軍はビルマに進攻したのだろう。泰緬連接鉄道建設を始め、余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えてみる。
日本軍が鉄道建設で亡くなった人の為に作ったパゴダに行く。ミャンマーの鉄路の側の草地の中に、ひっそりと「泰麺連接鐵道麺側建設殉難者ノ碑」と書かれた碑が立っている。その脇には余り大きく無い金色のパゴダが立っていた。
追い越すのは何も此方だけではない。対向車線側でも同じように、前走車に追い越しをかけてセンターラインを越えて来る車があって、間一髪ですれ違う。一番怖いのは、右側通行なのに右ハンドルの日本車なので、常にほとんどセンターラインを越えている状態の…
部屋の窓からは、丘の上に、麓から屋根に覆われた参道が続くチャイタンラン・パヤー(Kyaik Tan Lan Paya)の黄金の塔が見える。この独特の寺院の姿見ると、改めてミャンマーに来たんだという感慨が湧いてくる。