歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <56> まだ13日目 ウーペイン橋とフィッシュ&チップス

<13日目ー21
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。

<ザガイン・ヒルの日本人戦没者の慰霊碑>
対英米戦争(第二次大戦)が始まった1941年(昭和16年)12月の時点で、陸軍の方面別兵力は中国大陸に68万人、満州・朝鮮に74万人、南方作戦を担う南方軍は僅か15万人だった。それが1944年(昭和19年)11月には、中国大陸76万人、満州45万人、南方ではなんと109万人まで増えていた。
これは大本営が、1943年9月から太平洋戦域での絶対国防圏を構築するため、中国戦線から部隊を抽出(甲号転用)して来た結果だった。
しかし、1945年(昭和20年)8月15日時点では、中国大陸に105万人、満州66万人だが、南方では68万人に減少していた。

第2次大戦ではこのミャンマーの地で、イギリス軍は戦死約14,000名、負傷・行方不明・捕虜は約6万名。中国軍は戦死約10万名。
日本軍は、ビルマ戦に参加したのは約30万名。そのうち約60%の18万名が戦没。帰還出来たのは僅か12万名弱のみだった。

ここザガイン(Sagain)に沢山の慰霊碑があるのは、ミャンマー北西部やインドのインパール付近まで進出していた日本兵を、敗戦後、一時的に終結させた地だという説と、また別の説では、インパール作戦などで亡くなったのはインド国境に近いジャングルだが、そこは少数民族とビルマ国軍との紛争がいまも続いているため外国人が入域できなかったので、沢山の仏塔が建ち並ぶザガインに慰霊碑が作られたとの話もある。

しかし眼下に広がるエーヤワディー河の河畔は、ビルマ戦最後で最大の大会戦「イラワジ会戦」が行われた地であり、此処ザガイン(旧サゲイン)はその中心地だった場所で、第15軍各兵団、とりわけ第31師団(「烈」兵団)の激戦地だった地だ。
更にインパールや、ミャンマー北部のフーコンで戦った将兵の一部が、転進の際、橋げたの落ちたアバ(インワ)鉄橋を見上げながら、エーヤワディー河(旧イラワジ河)を渡河した場所だ。
ザガイン山には、約7,000名の戦没者の眠る日本人墓地や、1976年(昭和51年)に落成した日本の慰霊のパヤーが建っている。

第31師団「烈」、第40師団(鯨)の慰霊碑

日本パゴダ

パゴダ建立の趣意書「第31師団・烈」第138聯隊(奈良)

遠くにエーヤワディー河と、それに続く広大なミャンマーの平原を背景に建っている、「壮(楯)」(第55師団・善通寺)、「烈」(第31師団・バンコク)、「弓」(第33師団・仙台)、「菊」(第18師団・久留米)と言った旧日本陸軍各師団の通称号が記された慰霊碑の前で、ご苦労様でしたと、頭を下げて黙とうした。

一見、慰霊碑を新しくした為に残った台座の様な石碑がある。
表面を見たら、石板に掘られた当時のビルマ(現ミャンマー)の地図だった。日本軍が最初に進攻したモールメン(Moulmein 現モーラミャイン)、首都ラングーン(Rangoon 現ヤンゴン)の地名は読めたが、後は汚れて見えなかった。

慰霊碑を後に少し登ると、ザガイン・ヒル(Sagaing Hill)山頂にあるソンユーポンヤシン・パヤー(Soo U Ponya Shin Paya)の入口に着いた。
本堂には、緑色で美しく装飾された壁面の前に、大理石で出来た白い大仏様が見下ろしていた。

ソンユーポンヤシン・パヤー(Soo U Ponya Shin Paya)の大仏様


<アマラプラのウー・ベイン橋>
12:00も過ぎたので昼食にしようと、エーヤワディー河の側の食堂に来た。テラス席のローカル食の店だ。今はオフシーズンで殆ど客は居ないが、他のテーブルに一人だけ欧米人がガイドと共に来て居た。
私はドライバーには食事を勧めたが、自分は下痢気味と言ってコカ・コーラを飲んで居た。ドライバーの分を含め5,000Ks(約400円)。

ミャンマー式の昼食 食べた分だけ支払う様だ

最後に、アマラプラのタウンタマン湖に架かるウー・ベイン橋(U-Bein Bridge)にいく。有名な観光地なので、橋の両岸にはローカル向けの沢山の店や露店がでている。
日本を出発前、ガイドブックでこの橋の写真を見たとき、竹山道雄の「ビルマの竪琴」の一場面を思い出した。
敗戦で捕虜となった兵隊たちが労務から捕虜収容所に帰る途中、橋の上で、ビルマ僧の姿をした行方不明になった仲間の兵と最初に出会う場面だ。
物語はウドンの近くなので此処とは場所が全く異なるが、何故かイメージが重なって、無性に行ってみたくなった。

タウンタマン湖に掛かる長い橋

ウー・ベイン橋(U-Bein Bridge)


「いくつかの河床をつないだ長い橋なのですが、板を二、三枚ならべただけの粗末なものです。」「ようやく修繕をおえました。そして、最後の仕上げをすませて、ある日の昼すぎに、われわれはその橋をわたって町の方にかえりました。すると、その橋の上を、町の方から一人のビルマ僧が、衣の裾をかかげてこちらに歩いて来たのです。」「その肩に目のさめるような青い鸚哥をとまらせています。どこかこのあたりの村のお坊さんなのでしょう。この人が水島上等兵そっくりなのです。」(竹山道雄「ビルマの竪琴」)

私もサンダル履きの足を踏み入れて、橋の上を歩きだした。
160年前に造られたと云う長さ1.2kmの木造の歩道橋で、欄干が無く、橋の床板も不揃いの横木を並べただけで、隙間から下の青々した湖面が見えたりする。木製の橋脚は1,086本もあって、全てチーク材で作られているらしい。
今は雨季が始まったばかりなので水嵩は少ないが、歩きだすと湖面を渡る風が気持ち良い。

橋の床板は横木を並べただけ


橋の中ほどに立ってみると、広い湖面の中に1本の頼りなげな木橋だけが続いている。水島上等兵が渡って来てもおかしくない様な気になる。
今日は土曜日でミャンマー人の観光客が多い。途中に休憩所も有るので、其処に居た人に写真を撮って貰う。
私は対岸まで歩いて、また戻って来た。合計2.4kmも歩いたんだ。そのせいか、あるいは昼食を食べて居ないせいか、フラフラする。


<ミャンマーのフィッシュ&チップス>
帰りはマンダレー・スワンホテル(Mandalay Swan Hotel)という高級ホテルで降ろして貰う。ドライバーに40,000Ks(約3,200円)とチップを渡す。
ホテルの内装は木を多用したクラシカルな感じで、会議でもあったのかスーツやスカート姿の沢山の男女がロビーで立ち話をしている。

レセプションでダイニングの場所を聞き、レストラン「スワンカフェ」に入るが、客は誰も居ない。
白いクロスの掛かったテーブルに案内され、メニューを見ながらポークかチキンのグリルを頼むが、時間がまだ15:00だからか、今はやって居ないと。
仕方なく、「What do you have ? 何が出来ますか?」と聞くと、これなら出来ると言うフィッシュ&チップス、マッシュルームスープ、オレンジジュースを注文する。久しぶりに食べた。美味しいが、しかしこれでUS$10.5ドル。

注文したフィッシュ&チップスが来る前の、フレッシュジュース


高級ホテルの周りには客待ちのバイタクはいないので、帰りはホテルのレセプションでタクシーを呼んで貰うが、来たのは何とクラウン。
ゲストハウスのナイロンホテルまで7,000ks(約560円)もした。昨日は同じ様な距離のバイタクで1,500ksだったのに。なかなか難しいものだなぁ(笑)。