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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <52> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑯ ビルマ国民軍の反乱とラングーン陥落

<13日目ー17
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いま此処にいる。

<ビルマ国民軍BNAの反乱>
1945年(昭和20年)3月27日、「ビルマ国」の国防大臣だったアウン・サンは、BNA(ビルマ国民軍)全軍に「ビルマ国」バー・モウ政権への反乱を命じ、同時にBNAは日本軍へ全面攻撃を開始した。
すでに1944年(昭和19年)8月、日本軍の敗色が濃くなると、アウン・サン(副総裁)らタキン党、ビルマ共産党、ビルマ国民軍(BNA)は、秘密裏に反日組織「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)(ビルマ語の略称はパサパラ)」を結成していたが、遂に反乱が始まった。

それに先立つ3月16日、ラングーンの旧英植民地総督邸で日緬防衛会議が開かれた、木村緬甸(ビルマ)方面軍司令官はじめ日本軍閣僚、ビルマ国首相バー・モウ、国防大臣アウンサン少将らが出席していた。アウンサン少将からは、いよいよ第一線に送ることになったビルマ国民軍(BNA)の現状を報告し、木村緬甸(ビルマ)方面軍司令官からは出陣への祝辞が述べられた。
BNAの部隊は明日の出陣式の後、3個大隊約3000名が第28軍の指揮下に入り、イラワジ河西岸のエナンジョン対岸域で活動することが決まっていたのだ。

3月16日と言うのは、丁度イラワジ会戦の只中、突如英第4軍団によってメイクテーラが占領され、この対応として転進して来た第18師団と第49師団に対し統一のとれた指導を行わせるため、急遽シポウから怒西地域を担任する第33軍の司令部が呼び出されて、シャン高原の大和村で田中方面軍参謀長からそのことを伝達された日だ。

翌3月17日はBNA部隊の出陣式で、ラングーンのシュエダゴン・パゴダ(パヤー)前の広場で、式典後12時に分列式に移った。
BNAの出陣部隊が式場を出発して、市内行進に移った14時頃、突如英軍の150機による大空襲があり、市内は大混乱になっていた。

そうするうち、方面軍には前線各地のBNAに関する不穏な情報が届くようになっていた。
マンダレーでBNA2個中隊120名が、軍事顧問補の日本軍准尉を斬殺して逃亡。
ペグーの補給廠長は、敵の謀者と連絡している。
3月22日、士官学校生が、消灯後全員逃亡。
そして3月22日、アウン・サン少将が顧問の日本軍将校に何も告げず、密かに前線に出発していた。

シュエダゴン・パゴダ前の広場で、BNA部隊の出陣式が行われた

 

<ラングーンの放棄と英印軍の再占領>
イラワジ会戦で、日本軍を破ったイギリス軍は、英第33軍団がイラワジ河沿い、英第4軍団がラングーン=マンダレー間の鉄道線沿いのマンダレー街道を南下して来た。日本軍は第28軍にイラワジ河沿いを、第33軍にシッタン河沿いのマンダレー街道の防衛を命じたが、相次いで防衛線を突破され、イギリス軍がラングーンに肉薄していた。

ラングーンの防衛は、南ビルマの防衛を担当する第28軍の管轄だった。
しかし軍の主力第2師団(勇・仙台)は、既にインドシナ対策(「明号処理」)でインドシナ半島駐留軍の第38軍に転進。
その後任の第55師団(壮・善通寺)主力はイラワジ河岸地域に、1個旅団はエナンジョン油田地帯の防衛に出しており、ラングーンには実質上陸上部隊は不在だった。
マンダレーからメイクテーラ、トング―と、イギリス軍機甲部隊がマンダレー街道を一気に南下してくれば守るべがなかった。

このため在ラングーンの各部隊、兵站部隊や飛行場(ミンガラドン飛行場 現ヤンゴン空港など)管理部隊、憲兵隊、果ては在ビルマの現地邦人などを集めて、1945年3月に方面軍直轄部隊として独立混成第105旅団(敢威兵団)を編成した。
3個大隊を中心に、全体で僅か5000名の部隊だった。重火器は、1942年のビルマ進攻時にイギリス軍から鹵獲した砲のみだった。

最初の任務は、反乱を起こしたBNAの掃討だった。
当時BNAの主力約10000名は、ラングーン(現ヤンゴン)とマンダレーの間に分散駐屯して居たが、この反乱によって、兵站基地であるラングーンから前線への補給が途絶える可能性が出て来た。このため独立混成第105旅団(敢威兵団)が出動したが、多くのBNA兵は山中などへ退却したため実効は上げられなかった。

1945年(昭和20年)4月22日、トング―を突破した英第4軍団は、第5インド師団を先頭にマンダレー街道を南下、ラング―ンの北東約70Kmの古都ペグー(Pegu 現バゴーBago)に迫っていた。
ペグーは13から16世紀にモン族の王都で、マンダレーやパガンと並ぶミャンマーの古都だ。

4月23日、緬甸(ビルマ)方面軍司令部は、ペグー失陥に危機感を覚え、ラングーンを放棄し、飛行機でモールメン(現モウラミャイン)へ脱出して仕舞った。
前線で戦っている各軍司令部、前線部隊に事前の連絡もなく、ビルマ政府や日本人居留民への処置も明らかにしないままだった。
バー・モウらのビルマ国政府、チャンドラ・ボースの自由インド仮政府も慌てて後を追った。
ラングーン防衛司令官の、敢威兵団長にも事前の連絡が無かったらしい。

この知らせを聞いた敢威兵団(独立混成第105旅団)は、直ちに空き家になったラングーンに戻り、港湾施設の破壊、刑務所から捕虜の解放(一部はモールメンへ送致)、在留邦人のモールメンへの脱出の手配などを行っている。
その後ペグー(現バゴー)の防衛に就いた。
ペグー、パヤジー、ピンポンジーとマンダレー街道一帯を、縦深に兵力を配備していた。
4月27日、ペグー北方35Kmのピンポンジー付近で、英印軍第5インド師団と戦闘になるが、随所に地雷原を設け激しく抵抗。
しかし4月29日、遂にペグーが占領された。
雨季の到来が間近となり、雨が激しくなってペグー川が氾濫し、橋は流され飛行場も使用できなくなった。英印軍の部隊は至る所で水浸しになっていた。

この頃、英第50インド落下傘旅団の1個大隊が、ラングーン河(現ヤンゴン河)河口のエレファントポイント付近に降下。河口付近を掃討し、引き続き英第26インド師団がラングーン河の両岸に上陸した。
5月1日、ラングーン上空を飛行したモスキート偵察機の操縦士が、ラングーン捕虜収容所の屋根に、大きく「日本軍は撤退した。急げ」と描かれているのを発見した。
英第26インド師団がラングーン市内を急襲して、これを占領した。

5月2日の夕刻、英印軍第5インド師団に、英第26インド師団が南方海岸で上陸に成功し、日本軍はラング―ンから撤退したというニュースが伝わった。英第4軍団の後続第17インド師団は、冠水地帯を突破してさらに南進し、5月6日、ラングーンの北28Kmのレダーで、ラングーンからの英第26インド師団と出会った。

一方敢威兵団(独立混成第105旅団)は、英印軍が4月25日ペグー(現バゴー)まで到達したため、ラングーン北方のペグー山系、タウンジーに集結した。
雨季に入った6月10日に、方面軍直轄から第28軍に編入され、6月下旬からは敢威兵団が確保していたペグー山系に第28軍主力が集結するようになる。

1945年(昭和20年)6月15日、反乱を起こした「ビルマ国民軍 BNA」は連合国軍の指揮下に入り、「ビルマ愛国軍 PBF」( Patriotic Burmase Forces)と改称し、ラングーンで今度は連合国軍の戦勝パレードに参加していた。

ラングーン(現ヤンゴン)時代からある元最高裁判所