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ミャンマーひとり旅(2017年) <53> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑰ シッタン脱出① 第28軍ペグー山系へ転進

<13日目ー18
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまは此処にいる。


<イラワジ戦線崩壊後、第28軍のペグー山系への移動>

3月19日マンダレー失陥、3月28日メイクテーラ奪回を放棄し、イラワジ戦線が崩壊。
英印軍がラングーン奪回のためマンダレー街道を一路南下、突進していた1945年(昭和20年)4月13日ごろ、南西沿岸方面を担任する第28軍と緬甸(ビルマ)方面軍の会談が行われていた。
マンダレー街道を防衛していた方面軍(第33軍、第15軍他)が突破され、南部ビルマの防衛線としていたトング―(Toungoo)以南に、英印軍が進出する様な場合、第28軍は方面軍主力と分断されてしまう。
その場合、第28軍は全軍をラングーン北部のペグー山系(Pegu Range)に集結して、同山系を根拠として、爾後遊撃戦に移行する予定であることを伝えると、方面軍もこれを了承した。

ところがラングーン(現ヤンゴン)の方面軍司令部は、英印軍が4月22日トング―を突破すると、翌23日には飛行機でテナセリウム(現在のモン州Mon Stateとタニンダーリ地方域Tanintharyi Division)のモールメン(現モーラミャイン)に脱出して仕舞った。
その時ラングーンの守備隊として、方面軍直轄で急遽編成されていた敢威兵団(独立混成第105旅団)は、反乱を起こしたビルマ国民軍(BNA)の鎮圧のため、ペグー(Pegu 現バゴーBago)に向かっていた。
そのためラングーンは無警察状態に陥り、住民などによる略奪が始まり市中は混乱、周辺地域では反日ゲリラの活動が活発になっていた。

4月26日になって、第28軍はイラワジ河デルタ地帯に残置された振武兵団(第55師団(壮・善福寺)の一部)に対して、ペグー山系に転進するよう命じた。
なお、師団主力は「忠兵団」として、既に第33軍隷下としてトング―防衛のため転進していた。
5月3日になって、方面軍はモールメンから第28軍に対し、ラングーン防衛隊(敢威兵団)を第28軍に配属し、ラングーンを固守すべしと命令して来た。
しかしこの日、ラングーンは既に英印軍に占領されていた。
これを知ると、今度は第28軍はラングーン西方に兵力を集中し、ラングーンを奪回すべしとの命令を発した。

しかしこの頃第28軍は、ペグー山系に兵力を集中するため各兵団を指導中で、方面軍命令に対処するどころではなかった。
問題は、アラカン山脈以東、以南はほぼ英印軍に占拠された中、アラカン(南西沿岸部)に唯一残され、集結地のアン付近で戦闘中の第54師団(兵・姫路 師団長は宮崎繁三郎中将)を、急迫する英印軍の包囲を突破して、どのようにイラワジ河(現エーヤワディー河)東岸に移すかだった。

第28軍はペグー山系に入って、遊撃戦を行うことまでは方面軍に了解を得ていた。しかし、ペグー山系は食料自給の観点からも、軍が長く生存し、戦闘していくことは困難で、精々雨季明けまでペグー山系に留まり、次の乾季(概ね10月下旬から2月まで)前に、シッタン河東岸に渡る以外に生存の道は無いと考えていたのだ。

4月26日から29日の間、第28軍からビルマ各所に分散していた各兵団に、ペグー山系への移動が命令された。

イラワジ戦線崩壊後、第28軍は全軍をペグー山系に転進させた


<イラワジ河東岸 第54師団アランミョーの戦い>

4月中旬、神威部隊(第55師団の騎兵55聯隊、歩兵第143聯隊(徳島)の一部)は、イラワジ河東岸を南下して来た英第33軍団の英印軍とトンドンジで戦闘中だった。

英第14軍は、雨季前に一刻も早くラングーンを占領しようと、最速でラングーンに到達できる鉄道線路沿いのルート(マンダレー街道)を、メイクテーラに在った第4軍団の第5インド師団と第17インド師団、第255戦車旅団を南進させると同時に、なるべく広い範囲に戦域を広げて日本軍を分散させ、その抵抗力を削ぐ目的から、第33軍団の第2英師団、第20インド師団を、マンダレー、メイミョー、ウンドウィン、マライン、ミンギャン地区を掃討した後、イラワジ河沿いを南進することにしていたのだ。

貫徹集団(独立混成第72旅団)が守備していたマグエは4月19日、エナンジョンを4月22日それぞれ突破されていたため、イラワジ河東岸には神威部隊しか残っていなかったため、第28軍はイラワジ河沿いのアランミョーへ撤退を命令。
アランミョーは北方戦線(イラワジ戦域)から撤退中の部隊のためにも、アラカン以西からプローム方面に転進中の第54師団主力のためにも、イラワジ河渡河のため絶対に確保しなければならない要地だった。

4月27日、そのアランミョーに英第33軍団の第20インド師団が出現し、激しい戦闘となった。
その翌日、アランミョーの対岸のイラワジ河西岸のタエトミョーに現れた第54師団の先遣隊(歩兵第154聯隊(岡山)の一部)が、直ぐに渡河して戦闘に参加。
4月29日、30日には、英印軍の戦車十数両を伴う1個旅団の英印軍と激闘になり、アランミョーは突破され、パロー北方一帯を英印軍に占領されてしまった。
このため、アンを撤収してアラカン山脈を東進中の第54師団主力や、エナンジョン方面から撤退中の木庭部隊(第54師団歩兵第154聯隊(岡山)基幹)や貫徹兵団、勝部隊(第49師団(狼・京城)歩兵第153聯隊(京城)基幹)は、イラワジ河西岸に取り残されて仕舞った。
このため、アランミョーの下流のパロー南側を確保。此処でイラワジ河東岸を南下する英第33軍団を阻止することになった。

イラワジ河渡河の要衝アランミョーの戦い

イラワジ河西岸での第54師団指揮下の各部隊

<緬甸(ビルマ)方面軍各兵団の動き>
イラワジ会戦・メイクテーラ会戦を戦った第15軍(第15師団、第31師団、第33師団)、第33軍(第18師団、第49師団、第53師団、第55師団と、従来怒西(雲南)方面を担任していたが、米中軍、中国雲南遠征軍に押され戦線縮小してシャン高原に退いて来た第56師団(龍・久留米)の8個師団が、シッタン河とサルウィン河との中間地帯に在り。その大部分は敗残の部隊を率いてトング―方面に南進中だった。

一方、第28軍は敵中に取り残され、目下師団主力をペグー山系に集結させるため必死の努力を続けていた。
4月26日第54師団司令部はパダンを発って、5月1日タエトミョーに先行。しかし師団主力は未だパダンに在った。
その頃イラワジ河デルタの振武集団(第55師団(壮・善福寺)の一部)は、それぞれの部隊が現在の配備を撤し、ヘンサダ及びそれ以南でイラワジ河を渡り、5月10日までにペグー山系西麓に転進していた。

振武集団のイラワジ河デルタからペグー山系へ

そんな最中、方面軍からテナセリウム地区(モールメン南北の海岸線)防備のため、第15軍から第31師団と第33師団を抽出するとの命令が出た。
南方軍の命令で、泰国(タイ)、マレー方面に進攻を企図する英印軍の作戦を、長期間に渡って拘束するためだった。
更に南方軍は、ラングーンの失陥はきわめて遺憾。期を見て同地を奪回するよう示唆して来た。
このため方面軍は、5月9日第28軍に対し、ラングーン西北方地区に兵力を結集して、期を見てラングーンを奪回すべし、と命令して来た。
その時第54師団主力は、まだイラワジ河西岸にいて、果たして無事河を渡河して東岸に脱出できるのか憂慮されている最中だった。

<第28軍の救出に向けた第33軍の動き>
4月22日、英第4軍団の機甲部隊が突破して行ったトング―に、4月27日第33軍の4個師団が集結した。この時、4個師団全部での兵力は、僅か歩兵1個聯隊程度になっていた。
第18師団は歩兵約2000名、忠兵団(第55師団主力)は約歩兵1000名、第53師団も歩兵約600名、第49師団は歩兵約300名しかいなかった。
また、当時無線機に使う電池の補給は不可能だったため、5月5日を以て無線連絡途絶となっていた。

この時、第33軍は方面軍に意見具申を行っている。
今後の作戦に関しては、第15軍をして、トング―東側(シャン高原西麓側)を確保し、第33軍を以てシッタン河口に急進せしめ、第28軍の救出を図るを要するものと判断す、と。
方面軍もこれを了承した。
しかし、問題はその方法だった。
第33軍がいかに急行しても、トング―からシッタン河口までは直線で200Km,1週間以上掛かった。敵の後続の機械化部隊に先に占領される公算が大だった。
しかし、それでも第33軍は、4月28日行軍序列第18師団、軍司令部、第53師団、第49師団の順で出発した。
患者や行李などは、シャン高原山中沿いのケマピュー、パプン、ピリン、モパリン(シッタン河口)の道路で運んだ。

トング―からシッタン河口まで急行する第33軍

しかし豪雨のため道路は泥濘となり、闇夜雨中の行軍となった。
5月4日、シュエジン川(川幅約100m)を渡り、5月12日シッタン(シッタン河口の部落、モパリンの近く)に到着したが、既に丸山部隊(第18師団歩兵第114聯隊(福岡)の一部)が河口を占領していた。

第18師団の先頭がシッタン鉄道橋付近に達した時、対岸の英印軍が鉄舟を河岸に並べて、まさに渡河を強行するところだった。
第18師団の攻撃で、英印軍を撃退。
第33軍は、第18師団をシッタン河口のモパリンに、第53師団をクンゼイワ、シュエジンに、第49師団をタトン(シッタン(部落名)とモールメンの中間)に配置した。

第33軍のシッタン河口の配置

5月末、第33軍の澤本参謀長が上記をモールメンの方面軍に報告した際、方面軍司令官木村中将から第33軍の労を謝されたが、田中新一方面軍参謀長からは第33軍でラングーンの奪回作戦を行いたい旨の発言があった。
かねてから軍の戦力に関する方面軍参謀長の認識が、軍の実情と隔絶していたため、今日までの作戦で軍は苦労させられてきたとの思いがあったため、澤本参謀長が、いまの第33軍にはそれだけの戦力が無いと言うと、田中新一方面軍参謀長は「戦力が無いのではなく、戦意が無いのではないか」と強く言った。