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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <55> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑲ シッタン脱出③ シッタン河の突破と終戦

<13日目ー20
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまは此処にいる。

<第28軍の焦燥と英印軍の意図>
イラワジ会戦の最中に英印軍のメイクテーラ突入に直面した方面軍は、第33軍がメイクテーラを攻め切れずにいた間に、それまで第15軍が支えていたイラワジ戦線まで総崩れとなり、第33軍、第15軍ともシッタン河西岸までの地域を退いてシャン高原の西麓まで追い詰められていた。

友軍が退いたシッタン河西岸、特に南西(ベンガル湾)沿岸部に取り残された第28軍は、全軍をラングーン(現ヤンゴン)の北にあるペグー山中に集結させようとしていたが、雨季明けまでに全軍がそのペグー山中から脱して、シッタン河東岸に移って居なければ、全軍覆滅の虞(恐れ)ありと考えていた。
方面軍も、第28軍のシッタン脱出を援護する第33軍による策応作戦開始を、6月下旬としていた。
しかし6月中旬には、南西(ベンガル湾)沿岸部から転進中の第54師団主力は、まだバウカン平地で激戦中で、6月下旬にならなければペグー山中に転進出来ない状態だった。

既に4月22日に、南部ビルマへの要衝トング―(Toungoo)を突破してマンダレー街道を南下を続けていた英第4軍団は、先頭を第5インド師団から第17インド師団に交代して更に南下を続けていたが、4月27日ペグー北方約35Kmのピンポンジー付近からパヤジー、ペグーかけ、縦深陣地でラングーン守備隊の敢威兵団(独立混成第105旅団)の激しい抵抗を受けた。
しかし4月29日には、これを突破してペグー(現バゴー)を占領していた。

英第14軍のスリム司令官は、英第4軍団に、西方からペグー山系を東方に向かって横断しようとする日本軍部隊(第28軍)の企図を破砕するため、シッタン河口のモパリンの占領を命令した。

5月下旬、無線連絡は週に1回程度。辛うじて方面軍と第28軍の間に通じていただけで、シッタン河を脱出する第28軍と、それを援護して策応作戦をする第33軍との無線連絡は途絶えていた。
そのため将校斥候が派遣された。
敵の只中、しかも雨季で広大な氾濫地帯を突破して、ペグー山中のその所在すら不明な第28軍司令部を見つけ出して、再び部隊へと帰還するという任務は、生還は期し難かった。
しかしようやく帰還した1組の将校斥候によってもたらされたのは、第28軍は、第33軍のシッタン河西岸攻勢の成果を利用し、7月20日を期して、マンダレー街道を横断、引き続きシッタン河を突破する予定との情報だった。


<シッタン河下流域>
シッタン河下流域とその西岸一帯は、有名な米の産地で、深田、湿地、クリークが錯綜している。5~10Kmの間に小部落が点在し、部落には椰子やマンゴーの木があるが、その他は一面の大平原だった。
このため乾季には、機甲部隊の縦横な活動の舞台となるが、ひとたび雨季になれば様相は一変する。
水田と湿地は一面に水を湛え、クリークも水嵩が増して一面の水郷地帯で、点在する部落はあたかも島の様。
この湿地の水深は7~80cm、中には1.5mに及ぶところもあり、底は泥深い。また湿地に群生する葦は、高さが1~2mのため、視界が遮られた。
旧シッタン河以南は、牛車も通れず、交通は舟によるしかなかった。
雨季は攻防共に大きな部隊を動かすことは難しく、機甲師団も活動できない。唯一、航空機による攻撃が最も威力を発揮した。

シッタン河は、カイウェイ付近から下流は川幅1500~2000m、鉄道橋付近は最峡部で800m。水深は4m以上。ところどころに中州があるが、渡渉は出来ない。


<第28軍シッタン脱出への第33軍の策応努力>
第28軍のシッタン脱出に向けた第一歩である、マンダレー街道の突破は7月20日。これに合わせた第33軍の策応作戦が開始された。
7月3日、第18師団(菊・久留米)の歩兵第55聯隊(大村)、歩兵第56聯隊(久留米)、約1000名がシッタン河東岸から西岸へ渡河してサワトジョン占領。アビヤ=ニャンカシ(ニャウンカシュ)間の鉄道を破壊するなどの陽動作戦を行う。
4月29日、日没後トング―を発進した第53師団(安・京都)約2000名が、第18師団の後方に続行して、シッタン河東岸を南下後、シュエジンの確保にあたっていたが、シッタン河を渡河し西岸で7月3日ミートキョ―で第7インド師団と交戦。

 

第28軍のシッタン脱出に策応する第33軍

一方シャン高原にあった第56師団(龍・久留米)の鳳集団は、これまでの確保線ロイレム、ホーポン、タウンギー、シキップから逐次モンパン、モウクマイ、菊平橋、ペコンに渡る線まで戦面を収縮させていた。
6月28日大須賀部隊(歩兵第113聯隊(福岡)の残存部隊)がトング―へ斬りこみ攻撃を行っていた。

鳳集団(第56師団(龍・久留米))の戦況


<ペグー山中>

ペグー山系は、ビルマ中部のイラワジ河とシッタン河の間にある低山と丘陵で、ラングーン(現ヤンゴン)まで流れているペグー河も、シッタン河もどちらもペグー山脈に源を発している。
南北約120Km、東西約50Km、標高500~600m、高いところでも1000m位だ。
山中には僅かに小径や象の道があるだけで、竹林を主とした密林地帯だ。
この山中に、北から第54師団、貫徹兵団(独立混成第72旅団)、神威部隊(第55師団(第55師団の騎兵55聯隊、歩兵第143聯隊(徳島)の一部)、振武兵団(第55師団歩兵第143聯隊(徳島))と干城兵団(第55師団歩兵第112聯隊(丸亀))、敢威兵団(独立混成第105旅団)の順に集結した。
第28軍司令部は、4月28日以降タンビゴン(ペグー山系の西端)にいたが、メザリ河畔に移動していた。

第28軍も、元来この山中に籠城するのは短期間と予想していた。しかし第54師団の主力の集結が遅れたため、約2カ月に及ぶ長い籠城となっていた。
山中は竹林のため、筍の最盛期で、筍粥が定食となっていた様だ。蛇、トカゲ、蝸牛などを食べ、柔らかい野草は何でも腹に入れた。それでも糧食が不足していた。

ペグー山系での山籠もりが1か月を過ぎた頃の6月初め、短波無線で突然ドイツの無条件降伏を知ることになった。

第28軍のペグー山中集結

<脱出計画>
6月25日、ペグー山中で第28軍のシッタン脱出計画が決まった。
7月20日早朝、ペグー山系の起点から出発し、マンダレー街道西側に集結。
夜半、マンダレー街道横断。
7月23日までにシッタン河畔に進出。
7月24日、夜シッタン河を渡河。
7月27日までにシャン高原西麓に兵力を集結、ピリン、パプンに向け前進。
ペグー山中を出発して、目的地テナセリウムまでは500Kmだった。
このうち第54師団主力は、シッタン河突破後、シャン高原を横断する予定だった。

各兵団のシッタン河突破正面は以下。
敢威兵団は、ニュアンレビン附近、兵力約4500名
振武兵団は、ペンぺゴン附近、兵力約8000名
第28軍直轄は、カニクイン附近、兵力約9500名
第54師団主力は、ピュ附近、兵力約12000名

シッタン河を渡河する方法は、すでに民舟を使用するなど不可能で、もっぱら筏を使用することが決められた。
工兵隊の指導で、用材や筏の組み方などが工夫された。
5mの竹を24本束ねれば、10名前後が乗れる。軍の全員が、2名で1本の割合で竹を用意し、結束する材料はジャングルの木皮で作った長さ4mの綱3本を用意した。
しかし、実際の行軍を起こしてから、長い竹を持っての行軍は邪魔になるので、5mの竹を半分に切って2.5mとして、各自1本ずつ携行することにした。
竹の筏には兵器や装具を乗せて、将兵は筏を押しながら泳いで渡ることになった。


<シッタン脱出>
1945年(昭和20年)7月6日、ペグー山麓の西側から山中を横断。7月19日、東麓に出た。
ペグー山系から行手のシッタン平地は一面の冠水地帯で、此処を突破してシッタン河畔に辿り着き、更にシッタン河を泳ぎ切り、英印軍の攻撃を破砕しつつ遥かシャン高原迄辿り着かなければならない。

7月20日。各兵団は一斉に進撃を開始した。
軍の突破正面は、トング―以南のピュからニュアンレビン附近に到る約160Km。この間を全軍十数個の突進縦隊に分かれて進んだ。
一方第28軍を迎え撃つ英第17インド師団他は、捕虜や鹵獲した書類によって、第28軍の計画を事前に察知しており、日本軍の渡河地点いわゆるシッタン・ベンド地点に二重、三重の阻止地帯を設け、最後にはシッタン河に第28軍を殲滅しようと待ち構えていた。
カニクインには英印軍900名、ピュには1個大隊、ニャンピンサには砲5門を備えた部隊を置き、これらの部隊間には戦車が頻繁に往来していた。
そのため、シッタン河手前の湿地帯でイギリス軍の攻撃を受け戦死する兵が続出した。

ピュからニュアンレビンに到る約160Kmの間を全軍十数個の突進縦隊に分かれて進んだ

第54師団主力は7月20日、24:00マンダレー街道を突破。キンワインに進出。
歩兵第111聯隊(姫路)がウェジを占領。
敵の激しい攻撃の中、7月23日夜から順次シッタン河の渡河を開始した。
河幅約200m、流速約2m/秒。
筏には概ね3~4名を組とした。河に押し出ると水勢に巻き込まれ、筏もろとも下流に流されるもの、筏を手放して濁流にのみ込まれるものが相次いだ。
打ち続く英印軍との激闘と、2ヵ月に及ぶペグー山中での栄養失調で、将兵の体力は極度に衰えていた。

河で流された者の遺体は、シッタン河の下流域で配備についていた第53師団(安・京都)や第18師団(菊・久留米)の将兵の眼前を、遠くマルタバン湾の沖まで流されていった。
第53師団の部隊では、7月下旬1日270体の死体が流れて行くのを見た。
シッタン河畔の英印軍哨所では、数日間に約600体が流れて行くのを数えた。このため英印軍では、第28軍の全滅を放送し、それを聞いた日本の第33軍の将兵もこの惨状を見て、一時はこの放送を信じた。

ようやく渡河した第28軍部隊は、シッタン河東岸を南下。ビリン経由でモールメン(現モウラミャイン)のあるテナセリウム(タニンダーリ地方域)を目指した。
8月4日、英印軍の攻撃から逃れた第28軍の各部隊は、シッタン河東岸に達した。シュエジン迄進み、8月21日、カニで終戦の情報を聞いた。
第28軍司令部は、8月2日ミガンギャンで渡河し、東岸を南下してシュエジンで第53師団に収容され、此処で終戦を知った。

多くの戦友をシッタン河で失った第54師団(兵・姫路)は、渡河を終えて7月28日ニャンピンサ、シャン高原西麓カナゾビンに集結。
シャン高原を横断して、パプン経由でテナセリウムを目指すが、8月15日に断念。終戦を知らぬまま再びシッタン河東岸を南下するが、8月23日になって第28軍から停戦命令を受けている。

第28軍は、34000名の兵力を以てペグー山中に入った。
その後シッタン平地やシッタン河突破作戦終了までに約20000名に近い損害を出し、友軍戦線内に辿り着いた兵は15000余名に過ぎなかった。
将兵が辛うじてシュエジン河畔に達し、第33軍の収容下にはいりつつあった時、終戦となった。