歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インドひとり旅(1997年) <3> 1日目 旅のはじめ・カルカッタへ出発

<1日目
1997年11月12日 水曜日 晴れ

<旅のはじめ・出発>
7:30、家を出て、日暮里から京成スカイライナーで成田空港へ向かう。
服装は、白いティーシャツの上に青いシャツを羽織り、下はチノパン。寒いので厚手のジャンパーを着こんだ。靴はハイキングシューズ。荷物は、パンパンに膨れたサブザックを背負っていた。

空港に着くと、エア・インディアのチェックインカウンターで、航空券を出し「AI305」便のボーディングパスを貰う。
預入れ荷物を聞かれるが、有りませんと。サブザックひとつなので、機内持ち込みだ。
帰国便のリコンファームについて聞くと、搭乗の72時間前までにしてくださいと言われる。3日前か。
日程を思い浮かべ、その頃までにはデリー(Delhi)に着いていたいなぁ。

出発ロビーにある海外旅行傷害保険のカウンターで、保険に入る。
セキュリティチェックを受け、制限区域に入り、出入国カードを書いて出国審査を通り、ターミナルビル「C88」の搭乗ゲート前で待つ。出発は12:00の予定だ。

エア・インディア「AI305便」に搭乗。
シートは69A。窓側の席だ。機内には、何かお香の様な独特の香りが充満している。早くも未知な異国インドの中にいる様で、期待より不安がよぎるなぁ。
12:00 定時に成田空港から出発。

途中、タイのバンコクでトランジット。既に時間は、日本時間で19:00過ぎ。確か日本とタイの時差は2時間だったはず。ここでは17:00頃かなァ。
でも窓の外に見える空港内の景色は、夜になろうとしている。
飛行機はドンムアン空港で1時間程度給油。降機した人を除き、殆どの乗客はそのまま機内で待っている。

ドンムアン空港を再び飛び立った機内から見るバンコクの街は、光の渦だった。
そこからミャンマーやバングラディシュと思しき真っ暗な闇の中を飛び続け、インドが近づいて来て、ようやくかすかな細い糸の様な光が次第に伸びてゆく。
その先に、いつ眩い光の束が現れるのかと思ったが、いつまでも光の糸は広がらないまま、高度を下げた飛行機は着陸態勢に入った。

19:05 インド・カルカッタCULCATTAのダムダム(Dum Dum)空港に到着。
日本との時差は3時間30分なので、日本時間ではいま22:35のはずだ。


<暗闇の中、カルカッタ(CALCUTTA)空港に到着>

ダムダム空港では飛行機から直接駐機場にタラップで降り、歩いて低層のターミナルビルに入ると、すぐにイミグレーションになった。

遅い時間だが、薄暗く広い体育館の様な室内いっぱいに長蛇の列が出来ていた。
殆どが男性で、多くは半袖のシャツに綿のズボン。中にはサンダル履きの人もいる。出稼ぎからそのまま帰って来た様に、手に手に剥き出しの荷物やビニール製の袋を持っている。殆どは南アジア人の様な人が多いが、イミグレーションは自国人も外国人も区別は無いようだ。

飛行機の中で貰った出入国カードを書こうとするが、テーブルが無い。
飛行機の中で書いておけば良かったなァと後悔するが、仕方ない。
周囲を見渡すと、部屋の後方に、壁に付いた奥行き15cm位の狭い棚のような造作を見つけ、その上で急いで横に置いたガイドブックの記載例を見ながら、出入国カードと税関申告書を書く。
急いで再び列に戻る。

ダムダム空港のイミグレーション

既にジャンパーは脱いで、ティーシャツの上の青いシャツも腕まくりしているが、それでもムッとした暑さで汗が流れて来る。
イミグレーション・カウンターの中では、カーキ色の制服姿の係官が手続きをしているが、列は遅々として進まない。さっきからトイレに行きたくて仕方ない。飛行機の中で済ませておけば良かったとまた後悔する。

イミグレーション・カウンターの方を見ると、今度は柄シャツ姿の私服の男性が、カウンター手前で並んでいる人のパスポートを見始めた。
あれっ?何、この人は誰?私人がこんなことして良いのか?と思ったが、列に並んだ誰も騒がず、普通にパスポートや書類を見せている。
横に並んだ他の列でも同じように私服の男性が次々とチェックしている。一体誰が正規の(?)係官なのか判らない。
ようやく順番が回って来て、イミグレーションで入国スタンプを押してもらう。特段何も聞かれなかった。

慌てて部屋の右手にあるトイレに入る。
中は日本の公園のトイレのようで薄暗く狭く、汚い。3つある小便器のうちひとつは壊れたままで2つしか使えない。しかも便器の位置が、随分高いところにある。周囲の人を見ても、左程大柄な人ばかりとは限らず、むしろ小柄な人が多いのに不思議だ。
しかしようやく放尿できてホットしながら、空港の施設がこうでは、街中はどうなっているんだろうと暗い気持になる。

日本とインドとの時差は3時間30分。腕時計の針を戻す。
現地時間は、まだ午後8時過ぎだ。でも既に夜中近くなっている様な気がする。
Baggage Claimは、私は荷物が機内持ち込みの30Lのサブザックひとつだけなのでそのままスルー。税関でも税関申告書を手渡しただけで、何も聞かれずスルーだ。

そこを抜けるとロビーの左側に銀行の窓口があった。
取敢えず少額でもインドルピー(Rs)に両替しようと近づくが、窓口の前には何人もの人が並んでいる。
こんな時は案外後ろにある銀行の方が、空いていてなお且つレートが良かったりするかとカウンターの後ろに回ると、そこにも窓口があったが、人はおらず、単に同じ銀行が背中合わせになっているだけだった。

空港内の両替所

「Excuse me!」と呼ぶと、奥の椅子に座っていた男が立ち上がってきた。
$50の米ドルの現金を両替。Rs1770。レートは$1=Rs.35.4。
日本円に換算すると、$1=130円だから、Rs.1=約3.67円になる。

ガイドブック(92~93年版)には、現在の凡そのレートはRs.1=約5円で、さらに銀行のレートは悪く、街中の両替屋の方がレートが良いと書いてあったので、此処での両替は少額にしておいた。
でも、此処の銀行のレートの方が良い??
空港内の銀行のレートが良くなった?それともガイドブックが旧くて、今はルピーの価値が下がってきたのか。分らないが、とにかくルピーの現金を入手できた。

$50のUSドルを両替


<最初の宿に>
空港のターミナルビルを出ると、一斉に沢山の客引きが呼びかけてくる。タクシー?ホテル?後は何を叫んでいるのか聞き取れない。外は広場で、暗い。背後の電灯のオレンジがかった薄い明かりが、その周囲に沢山止まっているタクシーや人をぼんやり映し出している。
その中に、日本で航空券等の手配を依頼した西新宿の旅行会社の現地エージェント(ランドオペレーター)であるツアー会社の人が、私の名前を書いたカードを掲げて出迎えに来てくれていた。正直、ホッとした。
一緒にクラッシックカーの様な車に乗り、空港からカルカッタの中心街に向かう。

通り過ぎる街は、遅い時間にも関わらず沢山の人が何ともなげに行き来しているが、暗くて人の表情も定かでない。飛行機の上から見た、光をちりばめたようなバンコクに比べ、カルカッタの街は通りに沿って細い紐のような、か細く弱い光があるだけだったのを思い出した。

周囲に時代がかった様な大きな建物が目立つようになり、多分何度か見た地図で見知っていたカルカッタのチョーロンギー通り(Chowronghee Rd)に入ったのだと気づいた。
ガンジス河(The Ganges)の巨大な支流のフーグリー河(Hooghly River)と平行して走るカルカッタのメインストリートも、闇の中に沈んでいた。
暗く、何か陰惨ささえ感ずるような石造りの大きな建物の角を左に曲がって、暗い通りに入ってからすぐ左の塀の中に入って車は停まった。
これが最初の宿泊地、LYTTON HOTELだった。

此処も薄暗いホテルのロビーで、日本で依頼していた明日夜出発のプリー(PURI)行きの夜行列車のチケットを渡されてから、エージェントが言うには、予約はしたがまだウェイティングリストに載ったままだ、という。
相手の「waiting」に反応して、チケットが手元にあるのに、乗れない可能性があるって、どういうこと?頭が混乱する。
では何時、確実に乗れるのか分かるんだ?

私は英語で話さなければならないとき、いつも最初に相手には「my English not good.」と言わなければならない程度の会話力しかないので、疑問はふつふつと湧き上るが言葉にならない。
「When will I know it ?」と単語を並べて聞くと、駅に行けば分かると言う様なことを言って帰ってしまった。

取敢えずLYTTON HOTELのレセプションで、日本で発行された予約票とパスポートを出して、チェックインする。此処は旅行代理店が、ツアー客などに使う様な中級ホテルみたいだ。
ボーイに部屋に案内される。チップRs10(約35円)を渡す。これが妥当なチップの金額かは分からないが、不満げでもなく戻って行ったので、丁度良かったか多すぎたかだろう。
夜、やはり列車のことが心配になって、部屋から教えられたエージェントの社長の自宅に電話したが、出ない。
食欲もないので、そのまま寝て仕舞った。