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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <51> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑮ アキャブ・ラムレ島第28軍の戦いと、英印軍の意図

<13日目ー16
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いま此処にいる。

 

<アキャブ、ラムレ島の戦い 第54師団(兵・姫路)、第55師団(壮・善通寺)>
1944年(昭和19年)12月、ビルマ南西部のラカイン(アラカン)方面で英印軍第15軍団がアキャブ方面へ進撃してきた。

この地域を担任していた第28軍は、7月にビルマ南西沿岸(ベンガル湾岸)の防衛に当たっていた第2師団(勇・仙台)を雲南の第33軍に転出させていた(その後第2師団は軍命令でトング―に配置された)ため、第54師団(兵・姫路)、第55師団(楯→壮・善通寺)によって、アキャブ正面から油田地帯のエナンジョン、ラングーン附近、イラワジ河デルタに渡る広大な正面の防衛を担っていた。

第55師団(楯→壮・善通寺)は桜支隊を残し、師団主力をパセイン平地(イラワジ・デルタ地帯)に転進し、転出する第2師団と交代した。
第54師団(兵・姫路)は、主力をミエボン、カンゴウに配置し、一部をアキャブ、ラムレ島、チェドバ島に配置していた。

第54師団(兵・姫路)は、編成地は姫路。兵庫、岡山、鳥取の3県を徴兵区とした師団で、通称号は「兵」(つわもの)。
歩兵第111聯隊(姫路)、歩兵第121聯隊(鳥取)、歩兵第154聯隊(岡山)が歩兵団の主力だった。
1943年(昭和18年)2月17日、本土の中部軍から第16軍(蘭印作戦担当)に編入され、3月25日動員下令。その後緬甸(ビルマ)方面軍直轄でビルマ南部に配置後、1944年(昭和19年)1月には第28軍に編入されている。

英第15軍団は、1945年(昭和20年)1月3日、アキャブを占領した後、1月12日ミエポン、1月21日には英印軍第26インド師団9個大隊約9000名は、飛行場確保を目指し、また海上補給線の要衝でもあるラムレ島に上陸して来た。
守備していたのは、第54師団(兵・姫路)の歩兵第121聯隊(鳥取)第2大隊約1000名だったが、空海支援のもと戦車を伴って上陸して来た英印軍に抗戦するが、守備隊の半数が戦死した。
残った兵は、2月13日日没とともに陣地から脱出。18日夜、敵の機関銃掃射を搔い潜って、幅30mのミンガンークリークを泳いで渡り、タンガップまで撤退した。

更に英印軍第25インド師団が、今度はカンゴウ地区へ上陸して来た。
約300Kmに及ぶ海岸線と複雑な島嶼地帯を防衛するのは、第54師団(兵・姫路)のみだった。守備隊は第54師団歩兵第154聯隊(岡山)だが、英印軍は海上機動を併用して守備隊の後方に迂回したため、守備隊は後退。


南西沿岸域アキャブ、ラムレ島の戦い

<第55師団のイラワジ戦線転出と、アラカン地域で残った唯一の第54師団>
1945年(昭和20年)2月8日、エナンジョンで緬甸(ビルマ)方面軍の作戦会議が開かれ、各軍参謀の集まる中で、ポパ山(現ポッパ山)、パガン(現バガン)が第28軍の作戦範囲に入った。イラワジ河畔のパガンは、従来は第33師団の作戦範囲だった地域で、作戦地境が変更された。
このため第55師団(壮・善通寺)は、歩兵第143聯隊(徳島)の一部を基幹とする「振武兵団」をイラワジデルタ地帯に残置し、主力(忠兵団)はエナンジョン南方地域に配されることが決まった。しかし残す「振武兵団」の戦力は、ほとんど沿岸監視部隊程度しか残っていなかった。

すでに第49師団(狼・京城)から抽出された歩兵第153聯隊(京城)の「勝部隊」や第55師団の歩兵第112聯隊(丸亀)主力の「干城兵団」は、エナンジョンに転進済で、同じ第55師団の歩兵第112聯隊(丸亀)や歩兵第143聯隊(徳島)の一部はイラワジ河地域のレパダン、ブロームで対空挺戦への備えを強化していた。

アラカン南西部沿岸域には、唯一第54師団が残された部隊だった。
3月9日、方面軍の命令で、第54師団主力はタマンド付近の戦闘を打ち切ってアン陣地へ撤退し、第54師団歩兵第154聯隊(岡山)主力の木庭支隊は、エナンジョンへ転出させた。
このため第54師団のアラカン山系以西に於ける最後の抵抗線は、タンガップ、アンの両陣地に押し込められてしまった。
歩兵2個大隊(約1000名強)で、アンーミンブとタンガップープローム間、アラカン山系以西より前進してくる英印軍を阻止しながら、主力をミンブ北方に集結し、英印軍を阻止することになった。

アンは、東進すればアラカンの峠を越えてミンブ、エナンジョンへ繋がり、タンガップからの自動車道はアラカン山系を通ってプロームに達している。アンとタンガップは、アラカン山系の横断路上の要衝だった。

 

イラワジ会戦での部隊転出により、南西沿岸域には第54師団だけが残された


<イラワジ会戦後の第28軍>
イラワジ河畔での会戦敗北、3月28日のメイクテーラ奪回作戦の放棄によって、第28軍の北方陸作戦は、イラワジ会戦を策応すると言った性格は失われ、現在はマンダレー街道方面に進撃中の英第4軍団の後方補給路を、ポパ山で遮断、もしくは攪乱する作戦に代わって来ていた。

方面軍は第15軍や第33軍の戦線を撤し、トング―付近に後退させ、第28軍はプローム付近に後退し、ロイコウ、トング―、ペグー山系からラングーンに渡る要線で英印軍を阻止しようとしていた。

3月9日、第54師団主力は、タマンド付近の戦闘を打ち切って撤退し、アン陣地に布陣していたが、英印軍第15軍団は師団の後退に追尾し、4月初めアン西方に迫ってきた。
当時の第54師団長は、前年の8月30日中将に昇格して師団長になっていた、インパール戦コヒマの勇将宮崎繁三郎中将。
敵は砲十数門を有する第82西アフリカ師団、第25インド師団の一部、第81西アフリカ師団の一部だった。
4月8日、第54師団は、歩兵第154聯隊(岡山)、歩兵第111聯隊(姫路)、歩兵第121聯隊(鳥取)の残余の部隊を率いて、敵の背後に迂回した包囲戦を行い、第54師団にとってビルマにおける最後の撃滅戦「レモーの反撃作戦」を行っていた。
しかし第28軍司令部より、アラカン以東に転出すべしとの命令を受け、4月15日攻撃を中止して、4月19日アンより転進することになった。

タンガップの北岸で激戦中の第54師団(兵・姫路)の歩兵第121聯隊(鳥取)守備隊も、4月27日第28軍からペグー山系に転進する命令を受けた。アラカンの既設陣地に第3大隊を残置して5月3日転進を開始したが、部隊がアラカン山中に向かうときには、ラングーンは既に英印軍に占領されていた。


<英印軍の追撃>
英第14軍(司令官スリム中将)は、イラワジ会戦・メイクテーラ会戦に勝利した後、雨季入り前にラングーンに突入することを最優先に考えていた。
スリム中将は、英第14軍が北方から進攻し、海上からも水陸両用部隊や空挺部隊を使ってラングーンを占領することを希望していたが、東南アジア同盟国地上軍では、水陸両用部隊はマレー半島のプーケット島の攻略に使用されるべきとして拒否されたため、ラングーン攻略は英第14軍独力で行うことになった。

しかしスリム中将の最も恐れたのは、日本軍がラングーンに予め死守部隊を配置することだった。
雨季に入って、補給線の延び切った先端で、ミートキーナやメイクテーラの様な激しい戦闘がラングーンで起きることは避けたかった。
しかし5月の雨季入りは、僅か7~8週間後に迫っていた。
そこで何よりも進攻の速度が求められ、機械化された2個師団と1戦車旅団からなる部隊を突進させることにした。

中部ビルマからラングーン(現ヤンゴン)に到る道は、ラングーン=マンダレー間の鉄道線路沿いのルート(マンダレー街道)と、イラワジ河(現エーヤワディ河)に沿ったルートがあった。
イラワジ河に沿ったルートは、南下と共に横断しなければならないイラワジ河の川幅が広くなり、作戦速度が遅くなる。
一方、鉄道線路沿いのルート(マンダレー街道)は途中の障害が少なく、距離も短い。しかし強力な日本軍の抵抗に遇う公算は大きかった。

検討の末、鉄道線路沿いのルート(マンダレー街道)を南進することにしたが、同時になるべく広い範囲に戦域を広げて日本軍を分散させ、その抵抗力を削ぐ目的からイラワジ河沿いからも部隊を南進させることにした。
メイクテーラに在った第4軍団の第5インド師団と第17インド師団、第255戦車旅団が、ピヨペ付近の日本軍陣地を突破して、鉄道線路に沿って(マンダレー街道)南進することになった。
さらに第33軍団の第2英師団、第20インド師団は、マンダレー、メイミョー、ウンドウィン、マライン、ミンギャン地区を掃討し、その後イラワジ河沿いを南進することになった。

第14軍が雨季前にラングーンを攻略するために南進した場合、2つの課題を克服する必要があった。
ひとつは先頭部隊が突進した時、攻略に手間取る時はそこを迂回して進む場合があり、後方に残った日本軍をどうするかだったが、それはラングーン占領後に反転して掃滅すれば良いと考えていた。
もう一つは更に厄介な問題だった。
突進が早ければ、同部隊へのトング―以南の補給は空からしか無くなる。
このため日本の第28軍が守備していた南西沿岸域から、日本軍を掃討する必要があった。このため1月3日に占領したアキャブや、2月13日占領したラムレ島には、早くも全天候用滑走路を持った航空基地の建設を行い、更に沿岸地域の補給基地の確保のため、タンガップからサンドウェイ、ダワに到る全沿岸地帯で日本軍の掃討が行われていた。