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ミャンマーひとり旅(2017年) <70> まだ21日目 アウン・サン博物館② 「アウン・サン=アトリー協定」とアウン・サンの暗殺

<2日目ー2

2017年 6月11日 日曜日  ヤンゴン 雨 時々曇り 27度。
ヤンゴンのカンドーヂ湖(Kan Daw Gyi Lake)の北にある、ミャンマー建国の父と呼ばれるアウン・サン将軍の生前の住居だった、アウン・サン博物館(Bogyoke Aung San Museum)に来ている。


<アウン・サン=アトリー協定>
1946年9月からラングーン警察がストライキを始め、官公庁から英国系企業の労働者迄巻き込むゼネストに近い様相となってきた。
イギリス本国では、第二次大戦のため1935年以来10年ぶりに行われた1945年7月の総選挙で、第二次大戦で英国を勝利に導いたチャーチルを破って首相になっていた労働党のクレメント・アトリー(Clement Richard Attlee)は、ビルマ統治の政策転換を決意する。

イギリスは第二次大戦中に約11億ポンドの海外資産を失い、戦争が始まった時7億6000万ポンドだった対外債務は戦争終結時には33億ポンドに膨れ上がっていた。
更に1945年8月17日には米国のレンドリース法(武器貸与法)が停止され、対英援助は打ち切られていた。このため12月に英米金融協定が締結されたが、これに伴い大英帝国内部の特恵関税制度が廃止された。これは戦前からアメリカが求めていた脱植民地政策に屈した形となった。
イギリス経済の疲弊は、既に植民地を維持することが困難になっていたのだ。

アトリー英国首相は、ビルマ総督のドーマン=スミス(R.Dorman-Smith)を罷免。
1946年9月、代わって終戦当時の軍政長官ヒューバート・ランスを、新しいビルマ総督に任命した。

ランス新総督は、アウン・サンらと会見し、「執行評議会」をパサパラが主張していたインド型の中間政府に改組し、11の閣僚ポストの裡6つをパサパラに提供した。この中で総督は事態を鎮静化させようとし、パサパラはビルマ独立のための交渉を進めて行こうとしていた。
「執行評議会」にはパサパラのアウン・サン派4名、ビルマ共産党2名の他、社会党のタキン・ミヤやウー・ソオらが加わった。
しかし10月には、方針の相違を巡って、今度はビルマ共産党(CPB Communist Party of Burma)がパサパラ(AFPFL)から離脱した。同時に共産党にシンパシーを抱くPVO(People's Volantary Organization アウンサンによって作られた人民義勇軍)メンバーも離脱した。
ビルマ共産党とは、1939年8月15日、奇しくもアウン・サンを書記として、タキン・タントゥン、タキン・ソーなど6名のメンバーで結成されていたビルマで最古の政党だ。

この結果、パサパラは共産党系を含まない党派(社会党系 旧人民革命党)になったこと、また今後さらに独立問題で揉め続けると、共産党が蜂起してビルマは内乱になる可能性もあることなど、ランス総督の進言を容れて、1946年12月、アトリー首相は「執行評議会」メンバーを中心とするビルマ側代表団をロンドンに招いて、直接交渉をすることを決意する。

1947年1月、アウン・サンを議長とするビルマ側代表団が、ロンドンでイギリス首相クレメント・アトリーと会談した。
会談は9回行われ、1月27日、ビルマへの主権委譲準備のため、新憲法制定のための議会設置と、議員選挙の早期実施を謳った「アウンサン・アトリー協定」(Aung San-Attlee Treaty)に調印した。
ビルマの独立を謳ったものではあったが、具体的な独立の期日やプロセスなどの記載はなかった。
アウン・サンは軍を去って「パサパラ(反ファシスト人民自由連盟)」(AFPFL)の総裁に就任する。

アトリー英国首相

<パンロウン協定>
1947年2月12日、シャン州のパンロウン(シャン語の地名、ビルマ語では「ピンロン」)で、アウン・サンはパサパラを代表して、シャン、カチン、チンの3民族の代表(多くが土候)としてシャン族の土候サオ・シュエ・タイ(Ssao shwe Thaik)たちが協議し、連邦制国家ビルマへの参加の同意を得て、「パンロウン協定」(Panglong Agreement)を結んだ。
しかし、この席には少数民族最大で、主にビルマ族が住む地域である管区ビルマに多くの居住者を持つカレン族の代表は参加せず、4名のオブザーバーが居ただけで、協定にも調印していなかった。
しかし英国もパサパラも、「パンロウン協定」を拡大解釈して、諸民族が一致して連邦国家ビルマを作ることに合意したとみなした。

<「制憲会議」選挙とアウン・サンの暗殺>
「アウンサン・アトリー協定」で実施が約束された1947年4月の「制憲議会」選挙は、「制憲」とは名ばかりで、実質は「アウンサン・アトリー協定」の是非と、アウン・サンの指導者としての承認を問う選挙だったとみなされている。
選挙に参加した政党は、パサパラとビルマ共産党のみで、他の赤旗共産党や、ロンドンでの「アウンサン・アトリー協定」にも署名しなかったウー・ソオのミョウチッ党やバー・モウの党などはボイコットしていた。
特に「カレン民族同盟」(KNU : Karen National Union)は、ビルマ人と組んで連邦国家を作ることを拒否していた。

選挙に参加したパサパラは、当然「アウンサン・アトリー協定」も、アウン・サンの指導者としての承認もイエスだった。
一方ビルマ共産党は、「アウンサン・アトリー協定」は独立の具体的な日程が無いことから「反対」、アウン・サンの指導者としての承認は、イエスだった様だ。
これは、ビルマ共産党のタキン・タントゥンが、アウン・サンと義兄弟だったからとも言われている。タキン・タントゥン夫人は、アウン・サン夫人のキンチーの姉妹だった様だ。

選挙に参加した政党は2つだけだが、他に多くの無所属の立候補者がいた。しかしパサパラが、様々な圧力を加えて、多くの対立する無所属候補者の立候補を取り下げさせる運動を起こしたため、立候補を取り下げる者が続出した。この結果、パサパラ候補者以外の候補者のいない、無投票区が全選挙区の半数近くにのぼった。

選挙の結果、「管区ビルマ」の一般選挙区で、パサパラは立候補182名中176名当選。このうち無投票当選が90名。ビルマ共産党は、立候補22名、当選6名、無所属は立候補74名、当選は0だった。
「制憲議会」は、このほか「管区ビルマ」のカレン人選挙区から24名、ユーラシアン選挙区から4名の他、ビルマ総督の直接任命で、辺境地区(Frontier Areas)の少数民族より45名が議員として参加することになった。

こうして連邦国家ビルマの独立を目指して進み始めた矢先、1947年7月19日土曜日の午前10時37分、アウン・サンは独立派の7名の閣僚とビルマ政庁西側2階のアウン・サンの執務室で会談中、突如銃を持った男4人が守衛の制止を振り切って部屋に乱入し、アウン・サンは銃弾13発を受け即死。他の閣僚も全員殺害されてしまった。
政敵であり前首相のウー・ソオ(U Saw)の一味が犯人と目され、翌年死刑となったが、実相は不明のままだ。アウン・サンは32歳だった。
これにより、ウー・ヌーが後任のパサパラ(AFPFL)の総裁になった。