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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <54> まだ13日目 ザガインヒルの慰霊碑の前で⑱ シッタン脱出② シッタン河東岸への脱出

<13日目ー19
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。いまは此処にいる。

<第15軍>
1945年(昭和20年)4月27日、第15軍隷下の第31師団(烈・バンコク)、第33師団(弓・仙台)は、方面軍直轄となって、テナセリウム方面に転進命令を受けたが、部隊はまだシャン高原の中を南下中だった。
第31師団は4月28日ロイコー、ぺプン、5月21日ビリン、タトンと進んでモールメンへ転進。
第33師団主力は、ロイコー、パプン、ピリンに5月29日集結。
メイクテーラで戦った第33師団の作間聯隊(歩兵第214聯隊(宇都宮))は、4月27日ロイコー北方のペコンで方面軍直轄としてモールメンに直行の命を受け、5月初めモールメンに到着。モールメン西側のビルジョン島を占領して、此処の防衛の任に就いた。

1945年(昭和20年)5月26日、大本営は沖縄戦の大勢が決し、持久戦に切替たいま、本土決戦の準備の最中だった。
南方軍はインドシナ半島、シンガポール周辺要域に兵力を集結させていた。
このため緬甸(ビルマ)方面軍でも、5月下旬、第15軍司令部をタイに、第55師団司令部をインドシナに転出させることになった。
第15軍は、既に第31師団と第33師団を方面軍直轄として抽出されているため、今は第15師団(祭・豊橋/京都)と忠兵団(第55師団主力)しかなく、更に司令部まで抽出されたため、5月30日、第15師団と忠兵団、更にメイクテーラ戦で「決勝軍」編成のため第33軍司令部を抽出されて、師団単独となって仕舞った第56師団(龍・久留米)の3個兵団を合わせて指導する「鳳(おおとり)集団」を編成し、第15軍任務のトング―要地の防衛を継承するとされた。
これによって、1941年12月の対英米戦開戦以来、僅か4個師団の戦力でビルマ全域の占領はじめ、ビルマの地で戦って来た第15軍は消滅することとなった。

第33軍と第15軍の兵団転進後の配置

ところが、6月2日になって、今度は第15師団と忠兵団がタイとインドシナへ転進となり、結局鳳集団は第56師団のみが残ることになった。
第15師団(祭・豊橋、京都)と忠兵団(第55師団(壮・善通寺)の残存兵力)10,500名はシッタン河を渡り、ヤンゴン北方のタウングー(Toungoo)を経て、6月国境を越えて泰(タイ)王国やインドシナ半島へ移動していた。

<第28軍シッタン河東岸への転進命令>
方面軍は自らが4月23日飛行機で脱出放棄したラングーンを、4月30日、敢威兵団(ラングーン守備隊 独立混成第105旅団)に対し、兵団は速やかにラングーンに変転して、同地区を死守すべきと命令した。
もともと敢威兵団(独立混成第105旅団)は、在ラングーンの各部隊、兵站部隊や飛行場管理部隊、憲兵隊、果ては在ビルマの現地邦人などを集めて、1945年3月に方面軍直轄部隊として編成した兵団だ。3個大隊を中心に、全体で僅か5000名の部隊だった。重火器は、1942年のビルマ進攻時にイギリス軍から鹵獲した砲のみだった。

敢威兵団は反乱を起こしたビルマ国民軍(BNA)掃討のためペグー付近にいたが、英印軍の進出でペグー山系に退却していた。
方面軍の命令に接しても、敢威兵団はマンダレー街道を南下して、ラングーンに戻ることは、英印軍の追撃を受け、兵団の壊滅を招くと、一旦ペグー山地のパウンジー付近に集結して態勢を整えることにしていた。

6月12日、第28軍は方面軍に対し意見具申した。
いままで第28軍はペグー山系に入って、遊撃戦を行うことまでは方面軍に了解を得ていた。
しかし、ペグー山系は「険峻ならず。面積また大ならざるを以て、四周より敵の攻撃を受け易く、生活物資皆無。従って長期に亙る遊撃作戦に適さず。敵の配置、土民の反日武装化等のため、平地の作戦は秘匿不能にて、糧秣収集また困難。将兵は目下食塩欠乏症に陥りあり」として、雨季明け迄にシッタン河を突破して東岸に集結せしめたいと具申した。
更に、第54師団主力のペグー山地への集結は、今後更に2カ月を要すると。
しかし6月15日返って来た方面軍の意向は、依然シッタン河西岸にあって遊撃戦を展開するよう要求していた。
しかし方面軍要求は実現可能性が低いと判断し、方面軍への再度意見具申するとともに、第28軍は依然全力を以てシッタン河東岸への突破への準備を進めていた。

南部ビルマは、4月下旬から5月上旬にかけて豪雨があり、次いで暫らく晴天を見たが、5月20日ごろから本格的な雨季に入っていた。
連日の豪雨は低地を浸し、道路を破壊した。河川は日々水量を増し、水田は一面の沼沢に変わって行った。

6月25日、木村方面軍司令官は第28軍に対し、軍主力を以て速やかにシッタン平地を突破、モールメン付近に転進し、次期作戦を準備するよう命令した。
これまで方面軍の強硬な指導を行って来た田中新一参謀長は、5月23日付けで突如内地(日本本土)の東北軍管区司令部附(仙台)に転出していた。
そして第33軍に対しても、シュエジン、シッタン(部落名)間で、シッタン河西岸に牽制攻撃を行うよう命令した。

しかし第28軍の主力である第54師団の状況は、きわめて切迫していた。この到着を待たずにシッタン河突破は出来ない。
当時第28軍の無線連絡は、4月以降の豪雨により各方面とも感度が極端に低下して、方面軍司令部、振武兵団(第55師団(壮・善福寺)の一部)を除き、5月上旬以来殆ど途絶状態になっていた。
各兵団の転進及びペグー山中への集結は、5月末までに完了する計画だったが、各兵団の行動は雨季の進行と、敵及び住民の妨害とで難渋を極め、6月下旬になって漸くペグー山中に各兵団を掌握できる見込みだった。
従って、第28軍はこのシッタン突破作戦(「邁」作戦と呼称)の発令を7月下旬と予定して、方面軍に報告した。

<第54師団の脱出行 イラワジ河渡河とバウカン平地の戦闘>
第54師団(兵・姫路)の主力は、木庭支隊(第54師団歩兵第154聯隊(岡山)の一部)の援護のもと、タエトミョー付近のイラワジ河(現エーヤワディー河)西岸に進出したが、対岸のアランミョーに在った神威部隊(第55師団(第55師団の騎兵55聯隊、歩兵第143聯隊(徳島)の一部)は英印軍の攻撃を受けパロー付近に後退していた。
第54師団の主力は、新たに指揮下に入った勝部隊(第49師団歩兵第153聯隊(京城)基幹)と共に、パト付近で渡河を試みるが果たせず。更にイラワジ河に沿って南下。
5月20日ごろ、カマ付近で強行渡河を行おうとしていた。

イラワジ河支流の上流遠く数里の地域まで捜索して、数隻の小舟を捜し求め、これを陸路で搬送。
しかし英印軍の砲爆撃は連日行われるため、渡河は夜間のみ。払暁前に使った民舟は濁水の中に沈めて置き、日没後浮かび上がらせて渡河を再開。
激しい英印軍の攻撃下で、5月25日までにようやく渡河を完了した。
渡河作業隊が「渡河完了」を報告しても、第54師団長宮崎中将はなお残留者のあるのを恐れて、遅れて来る者のため、必ず収容の処置を講じた。
このため第54師団の将兵は、一糸乱れぬ団結を保持してその後の難局に当たったと言われている。

ようやくイラワジ河の渡河はなったが、宮崎師団長はインパール戦での体験から、ペグー山中へは少なくも1か月分の糧食を携行すべきと考えていた。しかし軍の通報で、弾薬、糧秣の集積所が設置されているはずだったが、発見できなかった。
やむを得ず、師団が自力で収集する必要があり、例えペグー山中への転進が遅れても、糧秣収集の終わるまでバウカン平地で敵を阻止しなければならないと考えていた。
しかしこの間も、英印軍は執拗な攻撃を繰り返し行って来た。
また雨季入りの6月上旬から、コレラが猖獗し始めた。
早くは発病後3時間で急死、普通は2、3日で死亡した。その数は百数十名に及んだ。

第54師団のバウカン平地での戦い

6月16日、遂に転進を再開した。
ペグー山中での集結完了は、6月下旬の予定だった。集めた食糧は約40日分。33日分は自ら背負い、残りの7日分は牛の首に掛けて運んだ。
伝染病患者収容班は、師団の進路を汚染しない様、後方から続行。その他の患者は部隊自ら携行した。
山は道が無く険しい。昼夜の区別なく降り続く豪雨に河床道もたちまち水路に変わった。
前進途中、マラリヤ、デング熱の再発に苦しむ将兵は、辛うじて戦友の肩に縋って行くが、遂にはこれ以上戦友に心労を掛けるに忍びないと、密かに手榴弾で自決して果てる者が後を絶たなかった。
長い雨中の行軍で、靴は破れ、足は水浸しのため白くむくみ、皮膚は破れて肉が現れ、針の山を歩くような苦痛。
このような苦難の末、6月24日、遂に第54師団主力はペグー山中に辿り着いた。
しかし、ペグー山中でも、給養の低下やマラリヤ患者の多発で、各部隊の宿営地は悲惨な状態にあった。

<緬甸(ビルマ)方面軍統廃合の予定>
この年1945年(昭和20年)5月上旬ドイツが連合国軍に降伏。
欧州戦線から戻った英印軍の、インド洋方面での圧迫が更に強まっていた。
南方軍は、シンガポール周辺の防衛、タイを中核とするインドシナ半島の防衛にあらゆる努力を傾け、自活永久抗戦状態の確立を目指していた。
大本営は、シッタン河以西を喪失したビルマ方面軍はその地位を失ったとして、タイ・ビルマ指導組織の整理統合が行われ、緬甸(ビルマ)方面軍隷下の各師団は、第18方面軍(タイ国駐屯軍)隷下に吸収されることになった。
このため、当面緬甸(ビルマ)方面軍に取敢えず残されるのは、唯一シャン高原の第56師団(龍・久留米)のみとなった。