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ミャンマーひとり旅(2017年) <71> まだまだ21日目 アウン・サン博物館③ ビルマ連邦の建国と軍事クーデター

<21日目ー3

2017年 6月11日 日曜日  ヤンゴン 雨 時々曇り 27度。
ヤンゴンのカンドーヂ湖(Kan Daw Gyi Lake)の北にある、ミャンマー建国の父と呼ばれるアウン・サン将軍の生前の住居だった、アウン・サン博物館(Bogyoke Aung San Museum)に来ている。
雨季に入って、ヤンゴンは連日雨だ。

<ビルマ独立・ビルマ連邦(ウー・ヌー政権)誕生 1948年~1962年>
1947年7月19日、ビルマ独立運動の指導者だったアウン・サンが暗殺された。
その後、ビルマ(現ミャンマー)は、どんな道を歩んだんだろう。

1948年1月4日、ビルマは「ビルマ連邦」としてイギリスから独立する。
初代大統領は、「パンロウン協定」(Panglong Agreement)に参加したシャン族のサオ・シュエ・タイ(Ssao shwe Thaik)、初代首相はビルマ族のウー・ヌーだった。

しかしアウン・サンという強力な「箍(たが)」を失って、各勢力は独立直後から分裂を始める。
カレン族が独立闘争を始め、共産党も政権を離脱。
1949年には、中国国内での国共内戦に敗れた中国国民党軍の残存勢力が、シャン州に侵入。此処を拠点に「雲南省反共救国軍」としてゲリラ闘争を開始した。
アメリカのCIAは物資や軍事顧問団を派遣してこれを援助していた。
しかし「ビルマ連邦」政府はこの地域にビルマ国軍を展開し、1950年頃までに国民党勢力を一掃した。

またウー・ヌー政権は仏教優遇策をとり、ビルマ族、シャン族などの上座部仏教(テーラヴァーダ仏教)徒以外の、キリスト教徒の多いカチン族、チン族、カレン族などから反発をかっていた。
独立を求める少数民族勢力や中国国民党軍、共産勢力との闘争の過程で、次第に国軍の力が強くなっていった。

経済面では、独立前後に活躍したアウン・サン、ウー・ヌーら独立運動の指導者たちは、独立後の新国家に「社会主義ビルマ」を掲げ、土地の国有化、農業を含む重要産業の国有化を目指していた。
1950年代には、イギリス資本に拠っていた電力会社などのインフラ、映画会社、市場までを国有化した。
しかし少数民族や共産党の反乱で、国内は内戦状態になって行き、財政がひっ迫していた。このため1955年6月、ウー・ヌー政権は軍需産業と自然資源採掘を除き、外資による資本導入を許容するようになる。
これに対し、軍部からは、外国資本の許容は、社会主義国家建設の精神に反すると批判が起きていた。

山頂の寺院に続く長い参道


<軍事クーデターとビルマ連邦(前期ネ・ウィン政権) 1962年~1974年>
1962年3月、ビルマ国軍の司令官ネ・ウィン(Ne Win)が軍事クーデターを起こす。
今後50年に渡って続く、軍事政権の始まりだった。
ネ・ウィン率いる軍の「革命評議会」が実権を握る。
ビルマ社会主義計画党(BSPP Burma Socialist Program Party)を創立し、再び産業の国有化を行った。
外国との合弁会社、外資系銀行、商社ばかりか、国内の製造業、卸売業、小売業まで国有化し、外国との接触を制限する「鎖国政策」を行う。

この国有化の主たる標的となったのが、英領ビルマの時代からミャンマーの地に根付いて財産を築いて来たインド人資本家や地主だった。
この排外的な政策で、南アジア人はそのほとんどがビルマを離れて行った。
しかしこれによって経済活動に不可欠な利潤動機が欠落し、経済活動が停滞すると、経営に疎い軍人が企業の幹部として送り込まれ、経済活動は更に低迷していく。
ミャンマーは第二次大戦前後から1962年頃まで、世界一の米の輸出国だったが、1962年から1988年にかけその生産量は急減している。
1965年、社会主義経済建設法を制定した。

<ミャンマーの国軍>

しかし軍事政権など、ミャンマー独立後の政治に大きな関りを持ってくる「国軍」は、どの様な経緯で誕生したのだろう。
独立後のミャンマーの歴史にたびたび主役として登場する、ミャンマー国軍(タッマドー Tatmadaw)は、日本の敗戦直後の1945年9月、スリランカでのキャンディで行われた、アウン・サンらビルマ愛国軍(PBF)メンバーと、東南アジア地域連合軍(SEAC)総司令官のルイス・マウントバッテン中将や英軍スリム中将らによる会議の合意で発足した。
ビルマ独立後、旧イギリス領ビルマ軍のいわゆる「植民地軍」(主にカレン族)と「ビルマ愛国軍(PBF)」(主にビルマ族)が合同してビルマ国軍が誕生した。

もともとイギリス領ビルマの植民地政府では、軍は、インド人、英国系ビルマ人、カレン族やその他の少数民族で占められ、最大勢力のビルマ族は除外されていた。
イギリス人の将校団とは別に、インド人のセポイ兵や、ネパール人のグルカ兵(Gurkha)も駐屯していたが、その他にカレン族(Kayin)、カチン族(Kachin)、チン族(Chin)などによる植民地軍が編成されて、ビルマ族の反乱の鎮圧などに出動していた。

一方、ビルマ愛国軍(PBF)は、アウン・サンらビルマ独立運動の「三十人の志士」が母体となって、日本軍の指導下で1941年12月に生まれた「ビルマ独立義勇軍(BIA)が始まりだ。
日本軍と共にビルマに進攻。イギリス軍を放逐し日本軍が全土を制圧すると、1942年7月に「ビルマ防衛軍」(BDA)となり、更に1943年8月にバー・モウ(Ba Maw)を首班に、国防大臣はアウン・サン、外相はウ・ヌー(U Nu)の「ビルマ国」が成立すると「ビルマ国民軍」(BNA)と改称された。
しかし1945年3月27日、アウン・サンの命令で、今度はバー・モウ政権並びに日本軍への反攻開始によって、今度はBNAが連合国軍に加わって日本軍と戦うことになった。それが1945年5月誕生の「ビルマ愛国軍」(PBF)だ。

「植民地軍」(主にカレン族など非ビルマ族)とビルマ愛国軍(PBF)(主にビルマ族)、全く異なる出自の軍が一緒になった訳だ。
1948年、独立直後のビルマ国軍の中心だった軍務局(War Office)は、参謀長スミス・ドゥン、作戦主任参謀ソー・チャードゥ、空軍司令官ソー・シーショウなど殆どをカレン族の将校が占めていた。

1948年1月4日、ビルマ独立と共に、ビルマ軍に軍事顧問として留まっていた英軍将校が去った。
その後この新しい国軍は、直ぐに解体の危機に直面した。
ひとつは、キャンディ協定で新しい国軍に選ばれなかった元ビルマ愛国軍PBF兵士の処遇だった。
新しい国軍に入れたのはPBF兵士のうち5000名、将校200名だけだった。
一方入れなかったPBF兵士は、多くは武器をイギリス軍に引き渡して郷里に帰っていた。しかし、郷里にも職は無かった。
このためアウン・サンは、元兵士の生活安定のため、1945年12月に人民義勇軍(PVO:People's Volantary Organization)を創設していたが、PVOは次第に大きな組織となり、AFPFL(反ファシスト人民自由連盟 パサパラ Hpa-Hsa-Pa-La)の私兵の様な存在になっていた。
PVOは軍服を着用し、新規応募者には軍事訓練を行っていた。兵力は10万人。PVOの司令官は、新しい国軍に留まる様要請されながら断っていたアウン・サンだった。

1948年1月4日に、既に1946年10月に「パサパラ」から排除されていた共産党に指導された、ラングーン(現ヤンゴン)の港湾労働者がストライキを始め、3月には共産党を支持する農民が示威行動を開始すると、ウー・ヌー首相は共産党幹部の逮捕を命令した。
これにより逃亡した共産党幹部は、アウン・サン亡き後のPVO内の共産党系メンバーと共に武装蜂起した。

次いで1949年1月、カレン国家の建設を要求して各地で武装勢力「カレン国民防衛組織 KNDO( Karen National Defence Organisation)」が蜂起する。
それに呼応して新しい国軍内のカレン族3個大隊が、反政府を掲げて武装蜂起した。
ラングーン陥落寸前まで追い詰められたウ・ヌー首相は、2月に国軍内のカレン人部隊を武装解除し、カレン人将兵を解任・拘留した。
軍務局(War Office)のカレン人メンバーは政府に忠実だったが、解任され、代わって参謀長にネ・ウィン(Ne Win)中将が就任した。
ビルマ国軍に唯一あった3門の大砲が、ラングーン大学の構内に据え付けらえた。
このカレン族の内乱は、1951年8月に国軍のビルマ連隊第3大隊の攻撃によって射殺された、カレン族指導者ソー・バウーヂ―の死によってようやく下火となった。

この「カレン族の内乱」を契機に、ビルマ国軍の力が著しく強化されていく。
1949年に行われたイギリス、インドからの武器援助によって、次々に新しい大隊が増設された。
1949年2月には6個大隊しかなかったビルマ国軍は、1953年には41個大隊と急速に増強された。1955年には不足する将校養成のため、シャン州ヤッサウ町近くに士官学校が開設された。

1956年1月1日、軍務局が国防省に改編されると、ネ・ウィン(Ne Win)大将が総参謀長になった。
ネ・ウィンは、アウン・サン達と共に海南島で日本軍の訓練を受けた「三十人の志士」のひとりで、「ビルマ独立義勇軍(BIA)の出身だ。
日本軍の軍政下でバー・モウ(Ba Maw)首班の「ビルマ国」が作られ、BDAが解散し、BNAに組織改編されるとき、国防大臣になったアウン・サンの後任のBNA軍司令官に就任している。
彼は旧ビルマ国民軍(BNA)出身者を優先的に起用し、逆にカレン族以やカチン族など少数民族出身者を罷免するなどビルマ族を中心とした国軍の建て直しを行う。
この時放逐された少数民族出身の将兵たちが、相次いでカレン民族解放軍(KNLA Karen National Liberation Army)やカチン独立軍(KIA Kachin Independence Army)などを作って行く。
ネ・ウィンは、1962年、軍事クーデターを起こして軍事政権を発足させた。
これ以後、様々な形で国軍が国政に登場してくることになる。

現在のミャンマー国軍は、陸軍、海軍、空軍に警察軍の4軍で、約41万人。このうち陸軍が最も大きく37万人、警察軍が7.2万人いる。
2011年から徴兵制をとっているらしい。
国防費は、約21憶ドル。GDPの約3.15%に当たる。