歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インドネシア・ジャワ島ひとり旅(2017年) <20> 8日目 再び王宮へ、そこでは驚きの光景が!!

<8日目ー1> 

2017年 2月28日 火曜日 ジョグジャカルタ曇り のち雨 27度。

6日間は長すぎたかなと思えたジョグジャの街も、今日が最後だ。ボロブドゥール遺跡もプランバナン遺跡も行ったし、サンギランにも行った。王宮クラトンにも行ったし、・・・待てよ、最初の日に見た王宮、あれが全部じゃないはずだ。
そうだ、この地を去る前にこれが王宮かと思える姿を見たい。

 

<再び王宮Kratonを訪れると、驚きの光景が!!>
ホテルで朝食を食べ、10時過ぎ出掛ける。
ホテルからバイクのベチャに乗って、王宮Kratonに向かう。

ジョクジャに来て2日目、最初に行ったのがKratonだったが、行ってみたら建物以外殆ど何もなかった。しかし実はこれは北のKratonで、良く調べると南にもKratonがあり、其処の方が見所一杯らしいと判った。
先ずは北Kratonの入口でベチャを降りる。RP35,000(約295円)。
北Kratonの塀沿いに進んで行き、左に曲がると、南Kratonの入口がある。此処のチケットカウンターで、外国人料金Rp.12,500(約105円)を払って入場。

門を潜って中に入ると、広場の真ん中に大きな吹き抜けのパビリオン「スリマンガンティ宮 Bangsal Sri Manganti」があり、中で伝統音楽の演奏を行なっていた。
周囲に観光客も聴くことが出来る席があり、早速座って聴く。ガムランの伴奏に合わせて女性が歌っているのだが、ゆったりとして抑揚の少ない声調だ。
毎日午前中だけ、伝統音楽や舞踏が催されている様で、それに出逢えてラッキーだった。

スリマンガンティ宮 Bangsal Sri Manganti」で、伝統音楽の演奏を聴く

ゆったりとして抑揚の少ない声調で歌う女性歌手

ガムランの楽器

両側に一対の石像「ドヴァーラパーラ像 Dvarapala」が門を守っている「ドノプラトポ門Regol Donopratopo」を潜って更に広場に出ると、眼を見張る光景が現れた。

広場の其処此処に2~30人ずつ固まって、Kratonを守る所謂「武士」(衛兵 Prajurit Keraton)が総勢100人以上ジャワの伝統民族衣装に身を包んで、背中に「クリス」と言う短刀を差して座っていたのだ。

両側に一対の石像「ドヴァーラパーラ像」が門を守っている「ドノプラトポ門」

「ドノプラトポ門」を入ると、王宮の中心地「クダトン Kedhaton」

Kratonを守る「武士」(衛兵 Prajurit Keraton)たち

皆、背中に「クリス」と言う短刀を差している

此処は王宮の中心地「クダトン Kedhaton」と呼ばれる区画で、その中庭は白い砂が敷き詰められているが、「武士」たちはその白砂の上やガゼボ(Gazebo)の中、庭に植えられたサワノキの横などに座って居た。
ガイドブックなどにもこの「武士」のことは書かれているので知っていた。しかし北のKratonでもここ南のKratonでも、門の脇には「武士」を模した人形が置かれていた位なので、実際に居ても数人くらいじゃないかと思っていたので、本当にビックリした。

「武士」(衛兵 Prajurit Keraton)たち

「クダトン Kedhaton」に集まった「武士」(衛兵 Prajurit Keraton)たち


何かの儀礼なのか、集会中なのかは分からなかった。
ただ中庭に入ってから、「あれっ?」儀礼を行なっている場所に踏み込んでしまったのかと思ったが、よく見ると「武士」の座る間を数組の観光客がそっと歩いている。
大丈夫そうだとは思っても、粗相が無いか見張られている様な気がして、なるべく端を通って見物した。
待機中の様で、暫らく待つが何も始まらない。仕方ないのでそっと歩いてその場を離れた。儀式は始まらなかったが、あの沢山の「武士」が集まっている光景を見られただけで、十分満足だった。
一回りして王宮を出ると、またベチャ、Marioboro の連呼だが、すぐ近くにもう1箇所行きたいところがあるのでまた歩き始める。


<フレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburgを見てインドネシアの歴史を知る>

Kraton前の広場を横切ってJL Marioboroに入ったすぐ右側に、いつも制服を着た子供達が、列をなして入って行くところがある。「フレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburg」。
此処は1765年に建てられたというオランダの要塞跡だが、今はインドネシア独立戦争にまつわる展示をしていて、子供達の課外授業などに使われている様なのだ。

あまり期待しないで入った「フレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburg」

此処でも外国人料金Rp.10,000(約85円)を払って中に入る。
門を潜ると、VOC(オランダ東インド会社)やオランダ領東インド時代の旧式の大砲が何門も置いてあり、建物も要塞らしい重厚な石造りの建築だ。

中に入ると、展示はほぼ全てジオラマになっていて、インドネシア建国の歴史が、オランダの支配時代、その下での独立の気運、日本軍の進駐、日本の敗戦と同時に起きた独立運動、再度植民地支配を図って進駐して来たオランダ軍やイギリス軍に対する独立戦争、そしてインドネシアの建国、と、時系列的に50以上のジオラマで続く。
私の様に字が読めない人や、子供達には分かり易い展示だ。

各コーナーの展示や、予めウィキペディアやガイドブック、そのほかの資料など調べたものをまとめると、おおよそこうだ。

 

現在のインドネシアの地域では紀元前1世紀ごろインド商人からヒンドゥー教文化が広まって、紀元5世紀ごろからシュリーヴィジャヤ王国、シャイレーンドラ朝などの王国が、インドと中国などをつなぐ中継貿易の拠点として栄えていたらしい。
紀元12世紀ごろにはムスリム商人よりイスラム教も広がっていった。

16世紀の大航海時代、香辛料貿易の利益を求め、ポルトガル、イギリス、オランダが相次いでインドネシアの地に来航するようになる。

特にスラウェジ島(Sulawesi)とパプア(Papua)の間に広がるセラム海とバンダ海に浮かぶモルッカ諸島(マルク諸島 Kepulauan Maluku)は、古代より香辛料の島として有名だったため、この島の支配をめぐって列強が争っていた。

特にオランダは、当時領有していた北アメリカ大陸のニューアムステルダム(今のニューヨーク)マンハッタン島を、イギリスが領有していたこの諸島の島と交換した位だ。

もともと、大航海時代自体が、15世紀オスマン帝国が東地中海を占領し、東方貿易が妨害され、ヨーロッパにおける香辛料の価格が高騰したため、ヨーロッパ列強が直接アジアへ行って香辛料を得ようとしたのが原因のひとつだった。

 

当時オランダからこの地域に来ていたのは、1602年オランダで設立された「オランダ東インド会社」(Verenigde Ost-Indische Compagnie 略称「VOC」)だ。
「VOC」は1600年イギリスで設立された「イギリス東インド会社」に対抗して設立されたと言われている。

世界初の株式会社と言われているが、今の「会社」とは違い、商業活動の他、条約の締結権、軍隊の交戦権、植民地経営権などを持つ国王の「勅許会社」だった。

 

1619年ジャワ島のイスラム王国であるバンテン王国より、「ジャヤカルタ」(現在のジャカルタ)の地を租借してバタビア(Batavia)要塞を造り、この地での活動を本格化する。

統治では、地域に300以上あった言語の統一をさせず、一切の集会の禁止、一部の現地人をキリスト教に改宗させ、間接統治のため使用し、経済の流通は華僑に担わせるなどの施策を取っていたと言われる。