<5日目ー1>
1997年3月16日 日曜日 大邱 晴れ
<大邱の駅で>
AM8:10、またコートを着て、ザックを背負って、「New大邱ホテル」を出た。
フロントで「アンニョンハセヨ」と声を掛けると、受付の女性はカウンターの後ろで寝ていたらしく、ジャージ姿のまま起き上がって出て来た。
鍵を返しながら「Check out, please. チェックアウト、プリーズ」というと、宿帳を確認したのか、既に宿泊代はデポジットで払っているので、追加の料金は無いと言った。
特段何もないホテルだったが、暖かいオンドルパンに寝られただけで十分いい宿だった。
外に出ると、雨は上がっていたが寒い。
大邱駅も、巨大な釜山駅と規模は違うが橋上式の駅であり、造りは似ていて、駅正面に道路から直接2階へ上がる外階段がつけられている。その階段を上がって構内に入った。


駅構内にはもうすでに沢山の人がいる。
その中に、休日だからか登山の格好をした人が多く見えた。
5,60代の年配の男女が多い。
みんな明るい色の赤や青、緑や黄色のウィンドブレーカーやヤッケなどを着て、サブザックを背負っている。昔の日本の地味な茶系統のシャツやニカーボッカー姿ではなく、いかにもレジャーで登山やハイキングを楽しむような姿だ。
私は、この年配者たちの楽しそうな姿に、何か言い知れない違和感を感じてしまう。
韓国という国をずっと興味を持って見てきた訳ではないし、その国情も社会の世相も詳しくはないので、正直こんなに娯楽やスポーツとして登山やハイキングをする壮年や老年層がいることに驚いた。
さらにそこそこ高価そうな装備を身にまとっていることに、二重に驚いた。今更ながら、韓国は想像していた以上に豊かな国になっているようだ。
確かに釜山や大邱の町を歩けば、日本の街を歩いているのと変わらない、ビルや店や街並みを眺めていると、私が以前から抱いていた韓国という国のイメージとはどうも重ならない。
2年前に歩いたソウルの明洞の繁華街も、地下鉄も、それはそれで現実に違いないし、それが現在の韓国の実像なのは分るが、ひと皮むけば昔の韓国が現れてくるかもしれない様な気がしていた。
例えば表面上は、釜山の南浦洞のナイキで、高価なティーシャツを良く選びもせずに買っていく若者がいれば、裏では苦労しながらその子を養っている貧しい年老いた親がいる様な気がしていた。
しかし、いま目の前の集まっている、普通の親の世代の人達のカラフルな登山服姿は驚きだった。
私の漠然と抱いていた韓国のイメージは。
それは私が子供のころですらない、若いころ、たかだか20年位前は、もちろんその時韓国に来たことは無かったが、報道などで知りえた韓国はもっともっと貧しく、暗く陰惨で、恐ろしいところだった。それが今の韓国の社会と二重写しの様に浮かび上がってくる。
<韓国の光と影>
まだ朴正煕(パク・チョンヒ)大統領のころだった。
彼は、当時の最側近のひとりだったKCIA(韓国中央情報局)部長に暗殺されたのが1979年10月26日なので、それまでの任期中の約30年の間に「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げ、韓国を世界最貧国の層から脱出させた功労者と言われている。
1945年8月、日本が敗戦した時日本が海外に持っていた資産は、連合国軍最高司令部(SⅭAP:Supreme Commander for Allied Powers)の統計「1945年8月現在 日本人海外資産)によれば、218.8億ドルと言われ、その90%以上が中国(満州、台湾含む)と朝鮮にあった。
そのうち朝鮮半島には24%の52.5億ドル、さらに38度線以南の現在の韓国領内には10.5%の22.8億ドルが残されたと言われている。朝鮮半島内の区分では、北朝鮮に64.8%分、韓国には35.2%にあたる。
これは日本資本が、地下資源が豊富で、鴨緑江など水力発電に適した地形を持つ北部に、鉄鋼、化学、機械などの重工業を集中させ、南部を軽工業と農業地帯としていたためだった。
外地に残された日本人海外資産、いわゆる「帰属財産」は、敗戦後に北部はソ連に占領され、設備の一部は興南(フンナム)港などからソ連に持ち去られたが、その後独立した北朝鮮はこれらの産業基盤をソ連の指導下でそのまま維持し、韓国より高い工業生産能力を持つようになっていった。
一方、南部の「帰属財産」は、占領したアメリカ軍政庁に接収され、1948年韓国政権樹立と共に韓国に移管された。しかし日本国内との関連性が失われたため、若干残っていた備蓄原資材を消耗すると原材料不足で休業状態となり、当時殆どの軽工業の操業は60%を切っていたが、次第に管理不十分で浸水や盗難、設備の故障や部品不足で修理出来ず放置されるようになっていた。
1950年の韓国は、1人当たり国内総生産770ドルで、この水準は日本が韓国を併合した翌年の1911年の777ドルとほぼ同じレベルで、世界145か国中106番目の最貧国だった。
従事する産業の割合は、農業従事者が全体の78.7%、水産業を含めると全体の80%が第一次産業の従事者だった。
しかもこの年の6月25日に起こった朝鮮戦争によって、国内に残った「帰属財産」の50%が失われたと言われている。
そんな中、朴正煕陸軍少将(1963年からは大統領)が、1961年5月16日の軍事クーデターで政権を掌握した当時、朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた韓国のGDP は北朝鮮より低く、1人当たりの国民所得はいまだ世界最貧国のレベルだった。
その後、ベトナム戦争特需やアメリカや西側諸国からの資金提供、とりわけ1965年6月22日に締結された「日韓基本条約」の締結に伴う付随条約で、10年間に無償3億ドル、有償2億ドル、計5億ドルと、当時の韓国の国家予算の2倍にあたる巨額の資金提供、更には日本が朝鮮半島に残していった「帰属財産」である社会基盤、資産、権利の放棄の明記などによって、1960年代後半以降、韓国の経済は構造的に外債に依存しながらも急速に復興し、成長を遂げて行ったのだ。
しかしその独裁体制下で行われた内政では、民主化要求の運動を弾圧し、政治犯の投獄や拷問なども頻繁に行われていた。
思い出すのは、1973年8月8日に起きた金大中氏拉致事件だ。東京のホテルグランドパレスから、滞在中の朴大統領の政敵と言われた金大中氏を、KCIAが韓国内に拉致した事件だ。その後彼は、韓国の裁判所で死刑判決を受けている。
一国の有力な政治家が、その国の国家機関によって、法治国家である日本から不法に拉致されるという前代未聞の事件に、日本の政界、マスコミが大きく取り上げ、挙って非難した。
更に1975年には、いわゆる「学園浸透スパイ団事件」(韓国では「在日同胞留学生スパイ事件」)があった。
これは11月22日、日本からソウル大学校などに留学していた20名近い在日韓国人らが、北朝鮮のスパイ団であると国家保安法違反に問われ、KCIAによって逮捕、起訴された事件だ。
彼らは裁判で、16名が死刑を含む有罪判決を受けた。
もっとも衝撃的だったのは、スパイ団の首謀者として逮捕された徐勝、徐俊植の兄弟の裡、徐勝が顔を含む上半身に拷問に依ると思われる大火傷を負って、公判に出廷したことだった。
この事件は被告が在日韓国人であることなどから、日本でも徐兄弟の救援の運動が広がったし、新聞やテレビでも何度もニュースになって、その痛ましい姿が放映された。
1975年にもなって未だに尋問にこんな拷問が行われているのか、日本で小林多喜二が築地警察署で特高によって拷問死させられたのは戦前の1933年だ。そのおぞましさに、韓国という国の底知れない暗い面を感じた。
更に1980年5月18日から27日にかけて、「光州事件」が起きた。
全羅南道の光州(クァンジュ)市で起きた民主化運動を、北のスパイに扇動された暴徒であるとして、再び軍事クーデターで政権をとった全斗換の軍事政権が、鎮圧棒による暴力や無差別一斉射撃などの残虐行為で鎮圧した事件。少なくとも54人が死亡し、500人以上が負傷したと言われている。
全羅南道は金大中氏の出身地だ。
韓国は軍事クーデターが繰り返され、陰惨な事件が相次いでいた。
そんな韓国の拭いきれない暗さと、いま目の前にある、カラフルな登山服姿でハイキングに行こうとしている、あの当時若者だった、いまの年配者たちの姿が、どうも整合しないまま二重写しになって見えるのだ。
実は、いま去ろうとしている大邱は、「慶州は母の呼び声」を書いた森崎和江が生まれる10年前の1917年(大正6年)に慶尚北道の亀尾(クミ)生まれ、大邱の師範学校を出て一時教員を務めていた朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の所縁の地でもあった。
「第三小学校前の三叉路の角に大邱師範学校がある。市街の中央通りから伸びて来ているバス道路は、師範と小学校のあいだを通って南へ行き、父が勤める高等普通学校の前を過ぎ、日本人の子弟が通う大邱中学の方向に行く(中略)この道は釜山に通じていたことを、後に知った」(森崎和江「慶州は母の呼び声」)
ここに描かれた「第三小学校」とは、正式には森崎が通っていた鳳山町小学校のことで、時代は少し異なるが、朴正煕が学んでいた大邱師範学校とは向かいあって建っていた。
