<8日目ー1>
2024年7月29日 月曜日 マラッカ 最高32℃ 最低25℃。
マラッカ2日目。
<マラッカの旧市街・中華街>
夜中に、喉が痛くて目が覚めた。未だ01:35だった。
具合が良くないので、なかなか起きられず、10:30ごろホテルを出た。
オランダ広場からすぐの金聲橋Jambatan Tan Kim Sengでマラッカ川を渡り、旧市街の中華街に入った。
通りの入り口には、龍のオブジェがとぐろを巻いている。その中を、沢山の観光客が入っていく。
この先は中華街で最もにぎやかな通り「Jonker St. ジョンカー・ストリート」だ。正式な名称は JL.Hang Jebat。
昨日、日曜日の夜は電飾で飾られた名物の夜市(Pasar malam)が開かれていたはずだ。
以前、台湾で夜市には行ったことはあるが、昨晩はどうもそんな気になれず、わざと1本道を違えた通りで夕食を摂った。
ジョンカー・ストリートの「ジョンカー」とは、マレー語で「ヨンカーJonker」、商業の意味らしい。この通りも、昔は骨董品の店が多かったらしいが、今は原宿の街のようにモダンでちょっと子供っぽい、観光客向けの土産物を売る店が多い。
マラッカの旧市街は、昔は通りごとに住む人が異なり、それによって名前が付けられていたらしい。
最も河口に近く、立派な建物の多い通りのTL.Tun Tan Cheng Lockは、財を成したプラナカンが住んでいたため「ヒーレン・ストリート(Heeren St.)、意味は「紳士」通りで、ハーモニー通りJL.Tokong Emasの隣の道はJL.Kampung Kuliで、「苦力(クーリー/労働者)の村」通りの様にだ。
ジョンカー・ストリートから1本北側(マラッカ川の川上)にある、トコン通りJln Tokong沿いに建つ青雲亭(チュン・フー・テンCheng Hoong Teng)に行く。
この寺院は、華人の信仰する仏教、儒教、道教の3つを祭ったもので、1600年代建立のマレーシア現存最古の寺院らしい。
通りに面した正門の後ろには、中国南部の福建省建築の影響を受けた正殿が続く。内は黒漆の梁に赤い房の飾り、扁額の金文字など、いかにも中国寺院らしい煌びやかなものだ。
正座には観音、左側の殿に三国志の関羽である関聖帝、右には海の守護神の媽祖と、仏教や道教の神が祭られている。
この通りには、交差するJln Hang Lekiu通りとの脇に、カンポン・クリン・モスク(Masjid Kampung Kling)が立っている。
此処は1748年にインドのムスリム商人によって建てられたモスク(マレーシアではマスジッドMasjid)で、元は木造だったらしいが、1872年に煉瓦作りに再建された。
モスクで見慣れた玉ねぎ坊主のクーポラではない三角の傾斜屋根、塔のようなミナレットは一見パゴダのような形。
これはマラッカの伝統的なモスク建築らしく、デザイン的にはマラッカ海峡を挟んだ隣のインドネシアのスマトラや中国、ヒンドゥー、マレーの融合らしい。
しかし赤、黒。金の装飾の派手な中国寺院と、緑の屋根に白い建物の質素なモスクが同じエリアに同居しているのも面白い。
<今日の昼餉は?>
11時前、ジョンカー・ストリートからさらに北側の、Jl.Tukang Besi通りの食堂「古城Rainforest」と言う小さな食堂で食事をする。
店の戸は開けっ放しで冷房もなく、扇風機がぐるぐる回っている。まだ昼食時には間があるため、客は誰もいない。奥の席に座った。
店主らしい年配の男性が、メニューを持って注文を聞きに来た。
チキンライスNasi Ayamと冷たい紅茶を注文する。
「テ エスteh es」(インドネシア語の「冷たい紅茶」)と言ってみるが、通じない。「アイス ティー」と言うと、「テ アイスteh ais?」と言うので「ヤーYa」(はい)と言うと、頷いて奥に引っ込んでいった。
暫くすると、近所のおじさん風の男性が入ってきて、店先の席に黙って座ると、近くにあった新聞を読み始める。
左程期待していた訳ではないが、店主が黙って置いていったチキンライスは、チキンに掛かったソースの香りが香ばしくて、実に旨い。マレーシアに来て食べたナシレマ、チキンライスの中で一番うまい。
少し感動して食べながら、ふと前を見ると、先ほど店先に坐った近所のおじさんも同じチキンライスを食べている。えっ?いつ注文したんだ?
毎日同じように暇な時間に来て、いつも同じものを食べている常連さんなので、注文のやり取りも要らないのかもしれない。
<旧日本軍の軍票>
ジョンカー・ストリートに戻って、ぶらぶら歩きながら古道具屋を覗いている。
店先にマレー人の少年が座っている。
ショーケースの脇に坐って、はにかんだ様な笑みを浮かべている。声を掛けようとしたら、傍に「Please do not touch.」と貼り紙があった。
一軒の店頭で、店先に旧日本軍の「軍票」が吊るされている。
「軍票」とは、第二次大戦中東南アジアの占領地で、日本軍が軍事行動の際に必要な資材や労働力の代償として発行していたもので、正確には「軍用手票」と言うらしい。
もともとは第二次大戦前の日清戦争(1894年7/25~1895年4/17)当時から使われていたもので、1918年8月から1922年10月まで続いたシベリア出兵までは、戦後処理の際に日本政府が正貨と交換してすべて回収していた。
「正貨」とは、補助通貨や紙幣とは異なり、金本位制の国の金貨などのように、それ自身額面と同じ価値を持った貨幣のことだ。
しかしこの店の軒先に「回収」されずに残された軍票は、1941年11月1日「南方外貨表示軍票」と呼ばれるもので、正貨と交換されずに、文字通り回収されずに廃棄されたものだろう。
日本軍の敗戦の色が濃くなってきてからは、現地では誰も受け取らなくなったと様々な戦争の体験談で語られている。
この「軍票」は、占領地で従来発行されていた通貨単位を踏襲したため、地域によって数種類の軍票があった。
「は号券」は、オランダ領東インドで発行。通貨単位は、初めはフルデン(Gulden)だった。「フルデン」とはオランダ本国の通貨単位「ギルダー」のオランダ語読みだ。
しかし後に日本が現地に設立した「南方開発金庫」発行の通貨の単位は、「ルピア」に変更された。
「ルピア」は、現在のインドネシアの通貨単位だ。
「ほ号券」は、フィリピンで発行され、通貨単位は「ペソ」。
「へ号券」は、イギリス領ビルマ(現ミャンマー)で発行され、通貨単位は「ルピー」。
「と号券」は、ガダルカナル島など英領太平洋地域で発行され、通貨単位は「ポンド」だった。
現在のマレーシアであるイギリス領マラヤで発行されていたのは、「に号券」で、通貨単位は「海峡ドル」だった。
「海峡ドル(Straits dollar)」は、1898年から1939年までイギリスの海峡植民地の通貨だったもの。
1826年イギリス東インド会社(EIC : East India Company)によって海峡植民地がつくられ、当初インド・ルピーを公式通貨としようとするが、流通性に不向きだったためメキシコ・ドル(スペイン・ドルの後継)を使用していたが、1906年海峡植民地通貨委員会により 金本位性(正貨と交換可能)の「海峡ドル」が使われることになった。
マレー連邦諸州、非マレー連邦諸州、サラワク王国、ブルネイ、イギリス領ボルネオでも使われていた。
店先に吊るされた回収されなかった「軍票」は、いま「3PC(Pieces)RM50」(約1,700円)と書かれて、わびし気に風に揺れていた。