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インドネシア・ジャワ島ひとり旅(2017年) <21> まだ8日目 フレデブルク要塞博物館でインドネシアの歴史を知る。

<8日目ー2> 

2017年 2月28日 火曜日 ジョグジャカルタ曇り のち雨 27度。


ジョグジャカルタ最後の日。念願の王宮に行って、次いでの様に立ち寄ったフレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburgで、ジオラマを見ながらインドネシアの歩んできた苦難の歴史を学んでいる。

フレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburgでインドネシアの歴史を学んでいる>

フレデブルグ要塞博物館前の、独立戦争を戦う姿のモニュメント

フレデブルグ要塞博物館を見て回っている。

18世紀になると、「オランダ東インド会社」(VOC)はジャワ島のマタラム王国の分裂で同島を支配、19世紀にはアチェ戦争でスマトラ島を支配する。

1799年「オランダ東インド会社」が解散して、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島全てが「オランダ領東インド(Netherlands East Indies)」となり、オランダ本国政府の直接統治となった。

 

ところがフランス革命戦争で、本国オランダがフランス軍に占領されたため、1811年から1815年の間、一時的にイギリス領となった。

1824年の英蘭条約でマラッカ海峡を挟んでマレー半島を英国領、インドネシアをオランダ領と国境線が引かれて、インドネシアは本格的に「オランダ領東インド」(Hindia Belanda)として再びオランダ本国が統治していくことになった。

当時のオランダは、ベルギーの独立、ジャワ戦争やスマトラのパドリ戦争などで軍事費の支出が増大したため、本国経済が疲弊していた。このため、オランダ領東インドでは「強制栽培制度」が行われ、コーヒーやサトウキビ、インディゴ、茶、タバコなどの指定作物が栽培された。
この「茶」は、実はオランダが17世紀にインドネシアでお茶の栽培を試みるが、失敗していた。そこで1824年、ドイツ人医師シーボルトを通じて日本からお茶の種を取り寄せ、インドネシアで栽培したが、また失敗、しかしその2年後、今度は成功して、プランテーションで栽培し、それをヨーロッパに持ち帰って売り、オランダ商人に大きな利益をもたらした。

しかしこの「強制栽培制度」ため、インドネシアでは稲作用の田圃が少なくなり、凶作や飢饉が頻発していた。
このため現地住民からの反発が大きかったが、懐柔策として「強制栽培制度」を緩和し、代わって油田の開発などを積極的に行い始める。1885年、スマトラ島で油田の採掘が、ロイヤル・ダッチの手で行われた。

一方でオランダの植民地政策に対し、住民の間から民族独立への機運が高まって来る。
1908年、ジャワ島で、原住民の地位向上を図る民族主義団体「ブディウトモ」(Budi Utomo)結成。
1927年、スカルノ(Sukarno)による「インドネシア国民党」の結成。
1928年10月28日、インドネシア青年会議第二回大会で発せられた「青年の誓い」(Sumpah Pemuda)では、「唯一の祖国インドネシア」「唯一の民族インドネシア民族」「唯一の言語インドネシア語」が宣言された。
この時演奏されたのが、のちに国歌となる「インドネシア・ラヤ」(Indonesia Raya)だ。

しかし1920年合法政党としてはアジアで最初の共産主義政党として結成されたインドネシア共産党(Partai Komunis Indoneshia 略称PKI)が、1927年末から1928年に武装蜂起し、オランダ植民地政府によって鎮圧される。この余波で、スカルノやハッタ(Hatta)の民族主義運動も非合法化されることになった。

1939年、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。
1940年、オランダ本国はドイツに占領される。
しかし東インドのオランダ植民地政府は、1940年5月にイギリスに亡命した「亡命政府」の統治下にあり、「対日ABCD包囲網」に加わった。

1941年12月8日、日本は対アメリカ、イギリスに対し宣戦布告するとともに、日本軍はイギリス領マレー半島のコタバルに上陸する。

1941年12月10日、オランダ「亡命政府」は日本に対し、日本が米英に宣戦布告したことは、米英と不可分の関係にあるオランダと戦争状態が存在するに到ったと通告してきた。

このため1942年1月11日、今村均陸軍中将率いる陸軍第16軍(主力は第2師団、第38師団、第48師団他)隷下の支隊と海軍陸戦隊による、ボルネオ島タカラン(Takaran)への攻撃で対オランダへの「蘭印作戦(H作戦)」は発動された。タカランは油田地帯である。
次いでセレベス島メナド(Manado)へも陸軍支隊と海軍陸戦隊が攻撃、ランゴアン飛行場には海軍の空挺部隊が空挺降下を行っている。

第二次大戦時のインドネシア周辺の動き

1月31日にはモルッカ諸島の天然の良港であるアンボン(Ambon)を占領。

2月14日には、大油田地帯であるスマトラ島パレンバン(Palemban)へ、陸軍第一挺身団(空挺部隊)329名が空挺降下を行って、油田地帯を占領。
この時の挺身飛行隊の直掩機は、「加藤隼戦闘機隊」で有名な陸軍飛行第64戦隊他であった。
パレンバンはムシ河の河口から約100Km内陸に在り、無傷での油田確保のため空挺作戦が取られたらしい。

オランダ領東インドの当時(1939年)の年間石油生産量は約800万トン、当時日本の年間需要量は約500万トンであり、この油田の確保は当時の日本にとって死活問題だった。この後、日本海軍はボルネオの油田、陸軍はスマトラの油田を保有することになる。

1942年3月1日ジャワ島上陸、10日バタビア占領。
3月7日にはバンドン要塞攻撃、12日にオランダ領東インドの連合軍の全面降伏。
これによりオランダによる350年間の東インド支配が終了した。

以後、日本軍によるオランダ領東インドの軍政が始まる。
これに伴って、オランダ植民地政府に逮捕され、流刑地にあったスカルノやハッタを救出。
オランダ植民地政府の、原住民への愚民化政策を改め、高等教育を施すようになる。
バタビアを「ジャカルタ」と改名。

日本軍の進駐の様子を描いたジオラマ

1943年中盤以降、日本の戦局悪化から、日本軍によりジャワ、スマトラ、バリでの現地民の武装化、軍事訓練が始まる。

インドネシア人による「郷土防衛義勇軍 ペタPETA」(Pembela Tanah Air)が発足。
これは士官学校を併合した様な軍事組織で、此処からは以後の独立戦争を担う将校38,000名が養成された。

1945年3月、独立準備調査会。
8月7日、スカルノSoekarnoを主席とする「独立準備委員会」発足するが、その直後の1945年8月15日、日本軍が連合国軍に対し降伏する。