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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インドネシア・ジャワ島ひとり旅(2017年) <32> まだ13日目 コタの歴史地区からスンダ・クラバ港が見えた!!

<13日目ー2> 

2017年 3月5日 日曜日 ジャカルタ 晴れ。

今回の旅行でジャカルタに着いた翌日、旧バタビア時代のコタ地区を散歩したが、まだ見たいものがあると、今日は再び訪れているのだが。

<コタ地区でインドネシアの歴史を知る>

少し先に海洋博物館があった。
この博物館の建物は、1718年にオランダの東インド会社のスパイス倉庫として建てられたものらしい。大きな長い棟がV字の形に建てられている。
RP.5,000(約42円)のチケットを買って、中に入る。

中にはバタビア時代のスンダ・クラパ港(Sunda Kelapa)から、日本軍の占領時代、独立戦争の時代など歴史的なこの地区の変遷が、ジオラマや写真、資料など様々な形で展示されている。船に関する陳列も多い。

スンダクラパ港とバタビア要塞の図

VOCの商人とインドネシアの人々

16世紀の大航海時代、ポルトガルに続きイギリスなどには遅れてこの地にやって来たのが、オランダの東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)、略称「VOC」だ。
「VOC」は1602年3月20日、1600年設立のイギリス東インド会社(EIC)に対抗してオランダで設立された。世界で最初の株式会社と言われているらしい。株式会社と言っても現在の会社とは異なり、商業活動の他、条約の締結権、軍隊の交戦権や植民地の経営権などを持つ国王の「勅許会社」であった。本社はアムステルダム。

1595年、本国とジャワ島西北岸のバンデン港との往復に成功し、バンデン港に商館を建設する。
1608年、スラウェジ島に上陸し、ポルトガルからクローブなどの香辛料で有名なモルッカ諸島の拠点アンボイナ島を奪取。
日本との関りで言えば、1609年には江戸幕府の許しを得て長崎の平戸に商館を作っている。また北米では、ハドソン湾を調査し、1614年現在のニューヨークに当たるニューアムステルダムを占領し、領土宣言をしていた。

1602年、「VOC」がジャワ島へ進出。1619年、今のジャカルタの地(当時はジャヤカルタDjajakarta)をバンデン王国から租借し、要塞バタビア城を築いて此処を本拠地とした。
バタビアの港湾は、チウリン河の河口を北側に埋め立てて造られた遠浅な港で、外洋船はバタビア湾内に停泊し、小型船で荷揚げを行っていたらしい。

1623年、モルッカ諸島のアンボイナで凄惨な事件が起こる。
この地にあったイギリス商館をオランダが襲い、イギリス東インド会社職員全員を殺害した。オランダ側が不審なイギリス商館の日本人傭兵を捕らえ、火責め、水責め、四肢切断などの凄惨な拷問にかけたところ、イギリスがオランダの要塞を攻撃する計画のあることが露呈したとして、オランダがイギリス商館を襲撃したものだ。
イギリス人9名、ポルトガル人1名、日本人10名全員が殺害された。
このアンボイナ事件の結果、オランダがモルッカ諸島の香辛料貿易を独占することとなる。

この時代はまだ日本は朱印船貿易の時代で、1635年に出される「日本人の海外渡航禁止、在外日本人の帰国禁止」令が出される前だったため、多くの日本人が傭兵などとして東南アジアで活躍していた時代だった。

我々日本人の多くは、オランダは酪農や農業の国で、オランダ人は優しく穏やかな人を想像するが、この事件は、オランダ人が実は残忍な一面も持っていることを示している。
日本に対しても、1942年からインドネシアを占領した日本軍が1945年8月15日に降伏すると、オランダは日本軍人をB、C級戦犯として逮捕、拷問、処刑を行った。連合国の中で最も多い226人の日本人を処刑、数千人を無期、有期刑で服役させている。これにはオランダの、単なる報復行為の側面もあったと見られている。

1641年、ポルトガル領マラッカを占領。
この間本国では、1648年にヴェストファーレン条約で、ネーデルランド連邦共和国がスペインより独立を果たしている。

1660年、スラウェジ島支配。
1665年から1667年の第2次英蘭戦争で、モルッカ諸島のラン島と、ニューアムステルダム(今のニューヨーク・マンハッタン島)を交換し、香辛料貿易を独占。
18世紀には、3度に渡るジャワ継承戦争の結果、マタラム王国が分裂し、バンデン王国と共にオランダの支配下に置くなど、インドネシア(オランダ領東インド)地域の支配権を確立していった。

1795年、フランス革命軍にオランダ本国が占領された。このため、オランダ領東インドはイギリスが占領。
1799年12月31日、「VOC」は解散。
1824年になって、英蘭条約によって、オランダ領マラッカとスマトラ島のイギリス領植民地を交換。イギリスはマラッカ海峡以北を植民地とし、ジャワ島はじめインドネシアの島嶼部のオランダへの帰属を決定する。
以後、インドネシア地域は、1942年の日本軍の占領まで、「オランダ領東インド」としてオランダ本国が直接経営に当たることとなった。

<バタビア時代の港・スンダ・クラバ港が見たい!!>
海洋博物館を出た。この先の路はどうなっているんだろう。手元には2日目に観光案内所で貰った地図が有るが、この辺りの小路は入り組んでいて良く分からない。それに地図の表記は英語とインドネシア語だ。
海洋博物館の脇の路を辿っていくと魚市場(Pasar Ikan)に行くらしく、そこが行き止まりでスンダ・クラバ港までは繋がっていない様だ。でもせっかくここまで来たのだから、港が見たい。

そうだ、あそこに登れば見えるかもしれない!!
来た道を戻って、先程訪れた見張り塔(Menara Syahbandor)に行ってみる。この塔は1839年に建てられたものらしい。この塔への入場は、海洋博物館の入場券で入れる。

見張り塔(Menara Syahbandor)

他に訪れる人もいなかったので、最上階からはひとりで漸く念願のスンダ・クラバ港(Pelabuhan Sunda Kelapa)が望めた。
ブサール川に繋がるジャカルタ湾からの細長い入江で、中型の木造帆船ピニシ船(Pinisi)が多数舫っている。今どき木造帆船がと思うが、沢山ある島嶼間の運搬や交通にいまでも需要が多いのだろう。

此処はバタビア時代の主要な港だった所だ。
ファタヒラ広場から北のエリアは、旧バタビアの港湾があった重要な場所だが、観光客はおらず、また道路や道案内など観光客を迎え入れようとの意思も無い様に、打ち捨てられた様なエリアだ。しかし歴史と言うフィルターを通して見ると、興味深い史跡の数々だった気がする。
海からの風が心地よい。暫らく佇んでいた。

見張り塔の上から入り江の様なスンダクラパ港が見える

木造帆船ピニシ船(Pinisi)が多数舫っているスンダクラパ港