<11日目>
2017年 3月3日 金曜日 曇り 時々晴れ・暑い。夕方から雨。
昨日ブロモ山を降りて、インドネシア第2の大都市スラバヤ(Surabaya)に入った。
<英雄の街の史跡を訪ねて・赤い橋でまた迷う>
ホテルで朝食後、9:30 ホテルを出る。
枕の上にチップRP1,000(約8円)を置く。
レセプションでタクシーを呼んで貰い、ジュンバタン・メラ(Jembatan Merah)に行く。
レセプションで「トロン パンギル タクシTolong panggil taksi.」と言ってタクシーを呼んでもらう。
タクシーに乗って、「トロン アンタルカン ク ジュンバタン・メラTolomg antarkan Jembatan Merah. ジュンバタン・メラまでお願いします」と言うと、運転手は「Jembatan Merah Plaza ジュンパタン・メラ・プラザか?」と聞く。
「ティダ、ジュンパタン メラTidak. Jembatan Merah. いいえ、ジュンパタン・メラです」と再度言うと、怪訝そうな顔をして車を発進させた。
スラバヤ(Surabaya)は、
首都ジャカルタに次ぐインドネシア第2の都市。東ジャワ州の州都で、マス川河口に位置する。人口300万人。マドゥーラ海峡ラモン湾(Telik Lamong)に面するタンジュン・ペラック港(Tanjung Perak)は、ジャカルタのタンジュン・プリオク港と並ぶ国際港で、日本企業の進出も多い。
しかも此処は、インドネシア独立戦争の激戦地で、初代大統領スカルノ(Sukarno)の出身地。「英雄の街」と言われている。
タクシーでその歴史的遺跡のひとつ、「ジュンパタン・メラJembatan Merah」に行ってみよう。
ホテルのある市内中心部から、スラバヤ港(タンジュン・ぺラック港)に向かって北上し、市内を縦断して流れるマス川(Kali Mas)に架かるのが「赤い橋」(Jembatan Merah)だ。
此処は、第二次世界大戦終結後の1945年8月17日「独立宣言」をしたインドネシアに、10月25日オランダ領東インド連合軍(AFNEI)として進駐してきたイギリス軍49旅団とインドネシア独立派との間で激しい戦いが行われ、独立戦争の発端となった場所だ。
特に「ムルディカ・アタウ・マティ Merdeka atau Mati 独立か死か」を合言葉に、この「赤い橋」付近で行われた11月10日の戦闘に対して、今でも「英雄の日」(Hari Pahlawan)としてインドネシアの祝日となっている。
ホテルからの出掛け、タクシーに「ジュンパタン・メラJembatan Merah」(赤い橋)に行って下さいと言ったら、怪訝そうな顔をされた。
私も何故?と思ったが、来て見て分かった。
タクシー代Rp.30,000(約255円)。
タクシーを降りた旧オランダ人街は、今でも使われている旧い石作りの建物が点在している。此処からJL Rajawaliが中国人街に向かうとき、スラバヤの街を縦断するように流れるマス川に架っている橋がJembatan Merahだ。
しかし橋の上は車やバイク、ベチャ迄が引っ切り無しに通る、何の変哲も無い橋だった。確かに欄干は赤く塗ってあり、橋と一緒に渡された水道管も赤く塗られて居るが、記念碑も説明書きの立札ひとつない。橋の上にベチャが並んで客待ちをしているだけ。
この様子に少し残念な気がしたが、取り敢えず絶え間無いベチャの誘いを聞き流しながら橋を渡り、中国人街の入口にある中華風のキャキャ門(kya-kya)を潜って更に進んでみた。
しかし其処も飲食店や中華風のお店が並ぶ地域では無く、何処までも倉庫の様な建物に、車や立働く人が忙しそうに行き交うだけだ。
地図で見ると多分先には中華街やアラブ人街があるらしく、アラブ人街に行きたいと客待ちのベチャの運転手に言っても通じない。
暫らく付近を歩き回ってから、どうも道を間違えたみたいだと気付き、どこかでカフェに入って休みたいと思ったが、それも見つからない。
<何故か、史跡ではなくショッピングモールToendjongan Plazaトゥンジュガン・プラザへ>
暑さで疲れた。仕方なくタクシーの運転手が最初に言っていた「ジュンパタン・メラ・プラザ」に行ってみることにした。
また来た道を引き返し、Jembatan Merahの袂にあるモールに入った。
しかし中は本当にローカルなショッピングモールで、カフェは無く中華風の飲食店ばかりだった。
仕方なくモールの入口でタクシーに乗り、今度は昨日ホテルの部屋から見えた市内中心にある巨大なショッピングモール「Toendjongan Plaza トゥンジュガン・プラザ」に行ってみることにした。
市内をまた南下してショッピングモールに着く。RP33,000(約280円)。
早速入り口の横にあった「Coffee Bean」に入る。時間帯なのか客が殆どいない。カプチーノを注文し、序でにWi-Fiのパスワードを聞く。これでGoogle Mapが使える。しかしカプチーノの値段が、何とRP40,000(約340円)もする。これでは誰も来ない訳だ。
此処で両替しようと思い立ったが、広いモールの中では両替所の場所が分からない。近くにいた中年の警備員に、一瞬インドネシア語で「ヌンパン タニャ、ディ マナ マネーチェンジ?Numpang tanya, Di mana money changer? すいません、両替所は何処でしょうか?」 と聞こうかと思ったが、反対に回答をインドネシア語で教えてくれたら分かりっこない。
咄嗟に「Excuse me. Where can I change money?」と聞いてみる。すると今度は、英語で答えるのが面倒なのか、わざわざ貴金属店まで案内してくれた。えっ、でも此処?!
金のネックレスなどを並べたガラスケースの向こう側は、中国人らしい母親と娘3人、屈んで時折顔が見える男性が1人。
米ドル札を出すと、新札は無いのかと。これだけだと言うと、キタス(KITAS暫時居住許可証)は無いかと。touristなので無いと言う。パスポート出し、コピーをとる。
$200で、RP2,655,000。$1=Rp.13,295。
今までで一番良い交換レートだ。
二階でティーシャツを買おうとし、衣類の量販店「マタハリ」(Matahari 太陽の意味)などで見るが、良いのが無い。
フードコートの「ナシゴレン69」で昼食を食べる。ナシゴレンとエステー(Es The 冷たい紅茶)で、RP32,000(約270円)。
ナシゴレンの上に載っていた、青い唐辛子を食べてしまった。
辛さが鼻に抜ける。いっぺんに鼻通りが良くなったが、舌先がジンジン痺れて、ナシゴレンが食べられない。同時に頭がくらくらする。
また「J Coffee」で、カフェラテとドーナツ一個を頼む。RP30,000(約255円)。受け取ると、ドリンクには既にサービスでドーナツ1個が付いていたので、合計2個になってしまった。でも甘いものは、美味しい。
帰りは歩いてホテルに戻る。途中、アルファマート(AlfaMart)で明日の朝のパンを買う。Rp.25,000(約210円)。
夕食はホテルのレストランで摂る。メニューを見ると、普通のナシゴレンと中華風というのが書いてある。
スラバヤはもともと華僑が多く、中華系の間では「泗水」と呼ばれていたところだ。
今日は中華風にしてみよう。
中華風のナシゴレンとエステー(Es The)。Rp.93,775(約795円)。食べてみたら、これはチャーハンそのものだ。これはこれで美味しい。
しかし同じメニューで、昼間はRp.32,000だったのに。
明日の出発の準備をする。いよいよスラバヤからジャワ島を横断して、今回の旅行の出発点であり終着点のジャカルタに向かう。「ARGO ANGGREK号」で9時間の鉄道の旅だ。お尻が痛くなりそう(笑)
しかしスラバヤはショッピングモールとカフェをハシゴしただけで、殆ど街を散策して居ない。後で調べたら一番の史跡「英雄記念塔 Tugu Pahlawan」もあったのに、まるで忘れていた!!
ちょっと旅に疲れてきたせいかな。