<5日目ー3>
1997年3月16日 日曜日 ソウル 晴れ
<鐘路(チョンノ)>
いま居るソウル市の鐘路区(Jonglo)は、北に朝鮮王朝時代の王宮「景福宮」(キョンボックン)があり、南には繁華街の明洞(ミョンドン)がある。落ち着いた中にも、若い人の多い賑やかな場所だ。
以前、1995年の3月に子供たちを連れてソウルを訪れた際には、景福宮の正門にあたる光化門(クァンファムン)と正殿の間にあった興礼門(フンレムン)の跡地に、ドームを持った巨大な日本統治時代の旧朝鮮総督府庁舎の建物が建っていた。
その時のガイドさんの説明によれば、この建物は1968年には大韓民国政府庁舎から国立中央博物館に代わっていたが、1993年には現在の大統領、金泳三(キム・ヨンサム)氏が植民地時代の残滓だとして撤去を決めていたらしく、中に入ることが出来なかった。
その建物を見ながら女性のガイドさんは、これは光化門から正殿に流れる「気」を遮るために日帝が造ったものだと、普段の語り口の柔らかさに似ず語気強く言っていたのを思い出す。陰陽道に言う「気」のことだろう。
私が釜山の市場で受けた冷淡な視線や怒声は、今も韓国人の胸に残る怨嗟の思いの表れだったのかもしれない。
その旧朝鮮総督府庁舎の建物は、まだあるのか分からないが。


<普信閣(ポシンガク)>
鐘路(チョンノJong-ro)を渡って行くと、地下鉄駅の真ん前に、伝統的な韓式の建物が建っていた。
なにかの門らしく、建物一面に赤、青、黄、白、黒の五色による「丹青(タンチョン)」が施されているが、どこかくすんだ様な無機質な印象を与えている。
扁額には「普信閣」(ポシンガク)と描かれている。
ガイドブックで見ると、どうも昔の鐘楼の様だ。
朝鮮王朝の時代、漢陽都城(ハニャントソン)と呼ばれる城壁に囲まれたソウル(当時の呼称は「漢陽」ハニャン)にあった四つの門の開閉を、午前4時と午後10時に告げるために鳴らす鐘があった場所とのことだ。
ただ、建物は朝鮮戦争の戦火で燃えてしまい、現在の建物は1979年になってコンクリート造りで再建されたものらしい。

よく「アコーディオン戦争」などと言われるように、今から47年前に起きた朝鮮戦争(以前、日本では「朝鮮動乱」と言っていた)の戦線は、北は中国との国境の鴨緑江から南は半島南端の釜山まで、何度もアコーディオンの様に往復している。
首都ソウルも、北朝鮮軍が北緯38度線を越えて侵攻してきた1950年6月25日から僅か3日後の、6月28日に早くも北朝鮮軍に占領されている。
その後アメリカ軍を主力とする国連軍が組織されたが、釜山まで追いつめられる。
しかし制空権を維持していたため、半島全体に広がっていた戦線を意図的に縮小し、釜山を中心とした洛東江防御線を築いて戦線を持ちこたえる中、9月15日、国連軍が前線の遥か後方にあたる仁川(インチョン)への上陸作戦によって、9月28日今度は再び国連軍がソウルを奪還する。
一旦国連軍が奪還したソウルだったが、しかし10月25日に中国軍が「人民志願軍」の名目で参戦すると、1951年1月4日北朝鮮・中国軍がソウルを再占領する。
しかし3月14日には国連軍が再びソウルを奪還と、目まぐるしく占領者が変わった。その度、ソウルをはじめ多くの街の景観が戦火に焼かれたらしい。
これが、今まで歩いてきた釜山や大邱と異なるところだ。
釜山や大邱は、朝鮮戦争では洛東江(ラクトンガン)防御線によって辛くも北朝鮮軍の戦禍から免れたし、旧くは豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」(壬辰倭乱・丁酉倭乱)でも、釜山に上陸した加藤清正や小西行長らの日本軍に占領されたが、後方の補給基地として使われたため戦禍を免れることが出来た。
しかし首都ソウルは、漢城府(ハンソンブ)の時代からいつも戦火が絶えたことがなかったのだろう。

実は以前から疑問だったことがある。
6月の北朝鮮軍の軍事侵攻を受けて、6月25日に国連の安保理事会が開かれ、「北朝鮮を侵略者」として韓国を支援して平和を回復するため軍事介入を決定。そのために組織されたのがアメリカ軍を主力とする多国籍軍である「国連軍」だ。
しかし昨今の安保理は、アメリカや英国、フランスなど西側諸国の提案はロシアや中国が、ロシアや中国の提案は西側が「拒否権(Veto)」を乱発して、何も決定できない。
なのに何故、この時は、この決定にロシア(当時は「ソ連」)や中国は拒否権を行使しなかったのだろう。
「拒否権(Veto)」は、安全保障理事会の理事国15か国のうち、常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)の5か国のみが持つものだ。第二次大戦の主要な戦勝国だ。
決議案の採択を阻止できる特権だが、採択には「常任理事国の同意投票」が必須とされるため、1国でも反対すれば否決となるが、例外として、常任理事国の棄権や欠席の場合、決議は成立するとされていた。
実はこの時、安保常任理事国入りしていた中国は、当時実質台湾を支配するだけの国民党政府の「中華民国」のことで、1949年10月1日に建国したばかりで、大陸を支配しつつあった「中華人民共和国」は国連の代表権を持っていなかった。
ソ連は同じ共産党支配の中華人民共和国に中国代表権を与えるべきだとして、1950年1月13日から安保理をボイコットして欠席していたのだ。
この間に「国連軍」の軍事介入が決議されていた。
因みに、この時ソ連が要求した、国連の代表権を中華人民共和国が取得したのは、1971年10月25日になってからだ。
「普信閣」建物の周りで少し眺めていたが、楼閣に上がれそうな様子もなく、外からしか見られない様だ。
街の様子や行き交う若い人の姿を見て、此処が釜山や大邱に比べて、外国人が声を掛けやすい街であるような気がして、「Excuse me. Could you take my picture?」と通りかかった若い人に頼んで、自分の写真を撮って貰った。