<9日目ー13>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<カルカッタCalcutta会議>
1948年2月19日から2月25日まで、インド西ベンガル州にあるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ Kolkata)で「アジア共産主義青年会議」(カルカッタ会議)が開催された。
この当時の「インド連邦(Dominion of India)」は、1947年8月15日にイギリス領インド帝国(British Raj)からパキスタンと分離独立したばかりで、英連邦王国(Commonwealth realm)の自治国(ドミニオンDominion)だった時代だ。
インド連邦は独立国だが、イギリス国王の代官である総督(Governor-General of India)兼インド副王(Viceroy)はルイス・マウントバッテン伯爵(Louis Mountbatten)で、首相がネルー(Nehru)。
インドが憲法を施行して共和国になるのは、1950年まで待たなければならない。
インドとパキスタンの独立時の分離「Partition of India」によって、各地で暴動が起こり、数百万人に及ぶ大量の難民が発生していた。
特に激しかったのが、同じ地域にヒンドゥーやスィーク教徒と、ムスリムが同居しており、土地の真ん中に国境の境界線(ラドクリフ・ライン Radcliffe Line)が引かれた、西のパンジャブ(Panjab)地方と、東のベンガル(Bengal)地方だった。
ベンガル地方では、インドから迫害を逃れて大量のイスラム教徒(インドではムサルマーンと呼ばれる)が東パキスタン(現在のバングラディシュ)に逃れ、ダッカ(Dacca)周辺に流入したように、カルカッタにも東パキスタンから着の身着のまま逃げてきた大量のヒンドゥー教徒やシーク教徒の難民が流入し、巨大なスラムが出来、膨大な数の都市貧民層となって住み着いていた。
ベンガル(Bengal)では、「マハトマ(Mahatma 偉大な魂)」や「バーブー(Babu 父)」などと呼ばれたガンディー(Gandhi)などの努力で、西のパンジャブ州ほど多くの殺人、略奪、強姦、誘拐などの凄惨な事態は免れていたが、人々の悲惨な生活には変わりなかった。
この混沌とした街で開催された会議は、インド共産党の指導下、世界民主主義青年同盟(WFDY)や国際学生連盟(IUR)の代表者が集まって開かれた。
会議では、第二次大戦中の「反ファッショ統一戦線」からの決別が討議されていた。
これは1941年6月22日にヨーロッパでドイツがソ連に侵攻した「独ソ戦」が始まって以後、本来の共産主義の主張である「反帝国主義・反植民地主義」から、コミンテルンはソ連を守る目的で、共通の敵であるファシスト・ドイツと戦っていたイギリスを助けるため、帝国主義・植民地主義者のイギリスと協力する「反ファッショ統一戦線」へと方針の転換を指示していたのだ。
しかし、戦後になって事態は変わっていた。
1947年3月の「トルーマン・ドクトリン」(Truman Doctrine)は、第二次大戦後の世界で、勢力を拡大していたソ連を先頭とする共産主義陣営を封じ込める宣言だった。
3月12日のアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンによる議会演説で、ギリシア内戦を始めとする共産主義に抵抗する政府を援助しなければ、ヨーロッパの各地で共産主義のドミノ現象が起きるだろうと主張した。
これに対し、1947年9月、ポーランドで、ソ連の指導の下で「コミンフォルムCominform」が結成された。
これは1919年から第二次大戦中の1943年まで続いた、「コミンテルンComintern 共産主義インターナショナル」に代わって、戦後の米ソ冷戦時代を、ソ連の指導の下で各国共産党間の活動の調整を行う機関として誕生した。
しかし「世界革命の実現」を目指すとしながらも、実態はソ連共産党とソ連外交の補助機関に過ぎなかった。
コミンフォルムの大会で、ソ連の代表ジェダーノフ(A.Zhdanov)は、従来の西側との協調路線から、対決路線への転換、対外政策の重点をヨーロッパからアジアへ置き換えることを表明していた。
このコミンフォルムの情勢判断を以って、会議では「反ファッショ統一戦線」からの決別が討議された。
この会議中に各国共産党との秘密協定やコミンフォルムからの秘密指示があった証拠はないが、しかし何故か、この「カルカッタ会議」以後、堰を切ったように東南アジアで次々と武装蜂起が起きていく。
<東南アジアの武装蜂起 ビルマ(現ミャンマー)>
ビルマ(現ミャンマー)では、1948年1月4日のビルマ独立を契機に誕生したビルマ連邦政府の共産党弾圧に対し、1948年3月ビルマ共産党(CPB)やカレン族、カチン族などの非ビルマ族の少数民族が武装蜂起した。
1947年2月、イギリスからの独立に際し、国民の大多数を占め、平野部の管区ビルマに住むビルマ族と、周囲の山岳部の辺境地帯に住む少数民族が同一の国家をつくるのかを話し合う会議が、シャン州のパンロン(Panglong)で持たれたが、参加したのはビルマ族を代表する「パサパラ Hpa-Hsa-Pa-La 」(AFPFL : 反ファシスト人民自由連盟)の代表アウン・サン(Aung San)たちと、シャン人、カチン人、チン人の代表(藩王)たちだけだった。
少数民族の中の最大勢力であったカレン人やモン人は除外されていた。
この会議を踏まえ、少数民族を含めた連邦国家をつくることを認めたイギリスから、1948年1月4日、イギリス連邦に属さない形で、ビルマ連邦は独立した。
首相はウー・ヌー。独立の指導者だったアウン・サンは、前年の7月19日に反対勢力により暗殺されていた。
しかし1月4日、これに反発して、既に1946年10月に「パサパラ」から排除されていた、共産党に指導された首都ラングーン(現ヤンゴン)の港湾労働者がストライキを始め、3月には共産党を支持する農民が示威行動を開始すると、ウー・ヌー首相は共産党幹部の逮捕を命令した。
これにより逃亡した共産党幹部は、アウン・サン亡き後の人民義勇軍PVO内の共産党系メンバーと共に武装蜂起した。
インドで「カルカッタ会議」が開かれたのは、まさにこんな時期だった。
その後、1949年1月には、カレン国家の建設を要求して各地で武装勢力「カレン国民防衛組織 KNDO( Karen National Defence Organisation)」が蜂起した。
それに呼応して新しいビルマ国軍内のカレン族の3個大隊が、反政府を掲げて武装蜂起した。
もともと独立後のビルマの国軍は、2つの勢力が合同して作られた組織だった。
ひとつは戦前、最大多数のビルマ族の暴発を抑制する目的で、ビルマ族を排除し、カレン族、カチン族、チン族などから構成されていた旧イギリス植民地政府軍。
もう一つは、反対に戦前イギリスからの独立を目指し、日本軍の下で訓練されたビルマ族のアウン・サンら「30人の同志」から生まれた、ビルマ独立義勇軍(BIA:Burma Independence Army)が元になったビルマ愛国軍(PBF)のメンバーだった。
1942年1月20日、日本陸軍第15軍と共にタイとビルマの国境を越えて進行したビルマ独立義勇軍(BIA)は、その後、1943年(昭和18年)8月、日本占領下で「ビルマ国」(首相はバー・モウ)が独立すると、ビルマ国民軍(BNA)となった。
しかしインパール作戦(1944年3月~7月)の失敗やイラワジ会戦(1944年12月~1945年3月)の敗北など、日本軍の敗色が濃くなると、1945年3月27日アウン・サンはBNAに、バー・モウ政権や日本軍に対する反乱と全面攻撃を指示した。
同年5月にBNAは、交渉の末に連合国軍の指揮下に入り、今度はビルマ愛国軍(PBF)と改称したのだ。
しかし国軍内では、今も総参謀長(国軍司令官)スミス・ドゥン(Smith Dun)ら、軍務局(War Office)のメンバーはカレン人が多く、彼らが指導的立場を占めていた。
ラングーン陥落寸前まで追い詰められたウ・ヌー首相は、2月に国軍内のカレン人部隊を武装解除し、カレン人将兵を解任・拘留した。
軍務局(War Office)のカレン人メンバーは、政府に忠実だったが解任され、代わって総参謀長にビルマ族のネ・ウィン(Ne Win)中将が就任した。
彼は、元ビルマ独立義勇軍(BIA)のメンバーだった人で、後の1962年3月にクーデターを起こして、今に続く軍事政権を始めた人物だ。
ネ・ウィンの指揮で、ビルマ国軍に唯一あった3門の大砲が、ラングーン大学の構内に据え付けらえた。
このカレン族の内乱は、1951年8月に国軍のビルマ連隊第3大隊の攻撃によって射殺された、カレン族指導者ソー・バウーヂ―の死によってようやく下火となった。