歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

韓国ひとり旅(1997年) <18> 3日目ー3 雨の大邱で宿探し

<3日目ー3

1997年3月14日 金曜日 大邱 雨

 

<New 大邱ホテル>

左程大きくない、くすんだ様な緑色の傾斜屋根が乗った二階建ての駅舎が見えた。今度はすぐに分かった。
バスを降りると、背負った荷が重く、更に強くなった様な雨が冷たい。
しかし、やっと大邱駅前に着いた。
駅前は道路工事の最中なのか、線路に沿って柵が巡らされ、大きなクレーンも立っている。駅前の通りには車の往来が多いが、流石に歩いている人は少ない。

これ以上濡れたくないと、駅前のバス停からすぐ傍に建っている、白い細長い5階建ての「New大邱ホテル」に飛び込んだ。

釜山の「旅館」に比べて、だいぶ高いかなぁと恐る恐る入って、一階のフロントに行く。室内は薄暗く、小さなカウンターにも人影が無い。
高くても1泊だけすればいい。これ以上濡れながら宿探しはキツイ。

「アンニョンハセヨ!」と声を掛ける。すると奥から小太りな若い女性が出て来た。
「ピン パン イッソヨ?」部屋空いていますか?と言うと、突然韓国語で滔々と説明が始まった。
しまった!全く分からない。私がなまじにわか仕立ての韓国語で呼び掛けたので、相手は私が韓国人か、韓国語を喋れる外国人と誤解しているみたいだ。

仕方ない。「Sorry.」と言ってから、「Can I get a room tonight?」と言うと、一瞬、何この人は?という顔をしたが、「ネー」はい、と。
「オンドルパン?」と聞くと、「ネー」と。良かった!!
「ハルエ オルマムニカ?」1泊いくらですか?と聞こうとしたが、また誤解されてもいけないと思い、「How much is the room charge per night?」と聞くと、一泊W25,000(約3,500円)だと。
釜山のソウル荘のW20,000(約2,800円)より高いが、「I`ll take.」と、部屋を見もしないで宿泊を決めた。
それ程寒く疲れていた。

New 大邱ホテル入口

New 大邱ホテル 5階建て

 

お金を払い部屋のキーを受け取ると、エレベーターで部屋まで上がった。
503号室。部屋は緑色のリノリュームの様な床のオンドルパン。チェストもどぎつい緑色で、バスタブも旧く薄汚れていたが、何より床暖房で暖かい。

もう外に出たくない。身体が怠く、寒気がする。お腹は減ったが、もう今日は韓国の人と話したくない。
明日は鉄道でソウルまで行こう。バスは大変だ。
横になっていると、オンドルパンの床に敷かれた布団から暖かさが伝わってくる。

 

今日、東大邱(トンテグ)から乗ったバスの中で、新川(シンチョン)を越えてすぐにあった市場(シジャン)を、間違って「駅」(ニョク)と教えたら、そこで降りてしまった韓国のおじさんはどうしたかなぁ。
違うと気づいたら、怒っただろうなぁ。私も一緒に降りたので、少しは許してくれるだろうか。でも、なんで旅行者然とした私に聞くんだよと、今更ながら訝しく思う。

しかし、あのシジャンは、地図からしたらやっぱり七星市場(チルソンシジャン)かな。
だったら、どこかで読んだことがある、ソウル近郊の「牡丹市場(モランシジャン)」や、今朝出てきたばかりの釜山にあったらしい「亀浦市場(クポシジャン)」と並んで、「韓国三大犬市場」のひとつだったのかもしれない。

これって、ペットの犬ではなく、食用の犬の肉(ケゴキ)を売っている市場のことだ。
韓国には中国や東南アジアの一部の地域と並んで、いまだに犬食文化があるらしく、夏場の滋養強壮に「捕身湯(ポシンタン)」などの犬鍋を食べるらしい。

せっかく降りたんだったら、怖いもの見たさで、ちょっと見てきたら良かったかな。
空腹のまま、いろいろ思いにふけっていたら眠気が襲ってきた。

ホテルの部屋はオンドルパン



<大邱の「湯の町エレジー」>

少し眠った様だ。照明を消した暗い部屋で、いま何時か分からないが、少し離れた方から韓国語で、年配の男性たちの朗らかな会話が聞こえてくる。

このホテルのどこかで宴会をしている様だ。
聞くともなしに声に耳を傾けていると、突然日本語で「湯の町エレジー」の合唱が聞こえて来た。
この歌は1948年の戦後間もないころ、古賀政男作曲、近江俊郎の歌で大ヒットした歌だ。約50年前の歌だ。
「伊豆の山々ぁ 月淡く~ 灯りにむせぶ 湯ぅのけむり」哀愁を帯びた歌声は流暢な日本語で、一体どんな人たちが歌っているんだろう。若い時日本に住んでいたのか、それとも昔の韓国でも流行った歌なんだろうか。

昔、父の仕事の取引先で自動車の解体業の人がいたが、一度きりしか見たことは無かったが、その人の目鼻立ちのきれいな美人の奥さんは朝鮮人だと言っていた。そのとき、日本でも意外に身近なところに韓国・朝鮮の人がいるんだなと思ったのを覚えている。
この歌が日本で流行ったのは、韓国では朝鮮戦争の始まる2年前だ。

どちらにしてもこの歌を知っている年代の多くの韓国人にとって、厳しい時代だったろうと思った。しかしどんな境遇にあっても、その人にとって青春は掛け替えのない思い出だ。私にとっても、か。

そんなことを思いながら、いつしか眠り込んでしまった。