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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <35> まだ9日目 「大西洋憲章」とマラヤ共産党MCP

<9日目ー12>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。今日は「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。


<宗主国イギリスの疲弊と大西洋憲章>
6年間に及んだ第二次大戦は、ヨーロッパ全体に深刻な影響を与えていた。
植民地マラヤの宗主国であるイギリスも、大きな被害を受けていた。
1946年時点でのイギリスの鉱工業生産は、大戦前1937年の90%に過ぎなかった。
大戦後イギリスは、英米金融協定によりアメリカから37億5000万ドルの借款を受けていた。
更に1947年6月から始まった「マーシャル・プラン Marshall Plan」、正式には「欧州復興計画」(European Recovery Program)では、アメリカからの援助総額100億ドルのうち約四分の一にあたる26億ドルの援助を受けていた。

このマーシャル・プランには欧州復興の目的と同時に、大戦後世界で唯一の圧倒的な経済力を誇るまでになっていたアメリカが、自由に貿易を行うため、戦前から残るブロック経済体制や保護貿易政策、その基盤にある植民地政策を打破して、自由貿易への障害を排除する目的も秘められていた。

1941年8月14日カナダ沖の大西洋上で、アメリカのルーズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相が会談して発表した、世間では民族自決や自由主義の表明の様に扱われた「大西洋憲章」の第3項にある「全ての人民が民族自決の権利を有する」の文言は、直接的にはブロック経済体制の温床となる植民地体制を壊し、宗主国から植民地の独立を実現することを謳っているが、同時に「門戸開放」によって自由な貿易のできるマーケットを拡大する意図も込められていた。

植民地が独立すれば、宗主国の頸木(くびき)から離れた、アメリカのお客様がひとり増えることになるからだ。
更に戦争で疲弊した国や、民族自決で新たに独立した国が、「経済援助」によって一定程度の経済水準を持つようになれば、今度は更に価格の高い商品を売ることが出来る。
しかも唯一の圧倒的な経済力で、他に競争相手のいないアメリカがそれを独占することが出来るようになる。

自由貿易の結果は、アメリカが世界中に自国に有利な取引のルール(ドルの基軸通貨化、国際通貨基金(IMF)や国際復興開発基金(IBRD)の設立、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)の発効など)を強いたり、自国の商品を売りまくることが出来るなど、最大の利益を得ることは自明の理だったのだ。

従来の「帝国主義」は莫大な費用をかけて、軍事力で植民地を獲得、維持して、歪んだ形でのブロック経済を作ってきたが、アメリカは「経済援助」費用だけで、「民族自決」や開発援助で拡大した世界中の顧客を巻き込んだアメリカ経済圏をつくり、その覇権を握ろうとしていたとも考えられる。
しかも「民族自決」や「経済援助」などの、道徳的な美名のもとにだ。

1941年8月14日の「大西洋憲章」を話し合う会議で、その意図を感じ取ったチャーチルは、この第3項の対象をドイツに占領された国に限定しようと主張したのに対し、ルーズベルトによって、インドやビルマ、マラヤなどの東南アジアやアフリカなどの大英帝国の植民地にまで話が及んだが、その問題は戦後まで先送りにされたのだ。

しかし、戦後のイギリスには、すでに広大な植民地を維持する費用も、治安維持のため兵力を投入する余力も無かった。戦争によって多くの海外資産や商船隊を失って経済は疲弊し、アメリカから莫大な借金をする様になっていた。
またインド独立運動の激化で、今までの戦争でイギリス帝国(British Empire)の治安維持のため使って来た、英領インド(British Raj)のインド兵は使えなくなっていたためだ。

さらに、マレー半島ではマラヤ共産党(MCP)のゲリラ活動の激化で、マラヤが北ベトナムの様に共産圏に吸収されかねないという新たな危機が生れていた。

アメリカのルーズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相の会談

 

<戦後のマラヤ共産党>
この間マラヤ共産党(MCP)はどうしていたのか。
1945年8月15日の敗戦による日本軍の撤退後、マレーは再びイギリスの植民地に戻ることになった。
日本軍の戦闘停止に伴い、1945年9月にイギリス軍がマレーに戻って来るまでの権力の空白期には、戦時中活動していた山岳地帯から町に戻って来た唯一の武装組織であるマラヤ共産党MCPやマラヤ人民抗日軍(MPAJA:Malayan People’s Anti-Japanese Army)が、事実上マラヤ各地の支配者だった。
しかしこの権力掌握の千載一遇の機会に、マラヤ共産党はイギリス軍政と協力する和平路線をとった。
インドシナやインドネシアの民族主義者が、戦後間もなく植民地宗主国に対し独立戦争を展開したのとは大きく違っていた。

9月に再びマラヤに戻ってきたイギリスは、マラヤ共産党MCPに武装解除を求め、MCPはこれに応じた。
当時MCPの総書記だった莱特ライテク(Lai Teck)は、1945年日本降伏後には武装闘争停止を命じていたのだ。のちに莱特ライテクに代わって総書記となる陳平も同意していた様だ。

マラヤ共産党MCPが権力奪取に向かわなかった原因は、一つは後で明らかになる理由の他に、根本原因として、マラヤの華人やインド人は、マラヤを自らの祖国とみなしておらず、マラヤに祖国意識を持っていなかったこと。そして、マレー人を加えた3民族の結集が不可能だったためとも言われている。

戦後イギリスと戦うため、軍を脱走してゲリラに加わった日本兵が400名にも及んだが、総書記の莱特ライテクは、MCPの和平路線への障害になるとして拒否し、多くの元日本軍将兵はMPAJAを離れ、陸路で日本を目指したが、1945年末から1946年初め、ペラ州クアラ・カンサール(Kuala Kangsar)では100名以上の日本兵がMPAJAによって殺害されている。
インドネシア(蘭領東インド)の独立戦争でも、PETAやインドネシア義勇軍に加わって1,000名以上の日本兵が戦っているが、戦死者はインドネシアの英雄墓地に埋葬されるなど、両国での評価や扱われ方はまるで違っている。

和平路線を選択し党の影響力の拡大を狙って、マラヤ共産党MCPは各地で労働組合を組織し、食糧事情や雇用問題を背景にして、ストライキを行った。
1945年9月、全国労働組合(GLU : General Labour Union)がシンガポールで設立され、港湾局やバス会社で、賃上げなどの労働条件改善を要求するストを組織し、1947年までに全マラヤの労働組合の85%を傘下に収めた。
1945年から1947年9月まで、マラヤ共産党MCPの指揮下で、ストライキは119件件に上り、大衆的な支持を得つつあった。
1947年10月、過去最大のストライキをマラヤで行い、その運動は最高潮に達した。

丁度「マラヤ連合」発足の前夜で、主にマレー人によって「マラヤ連合」反対の声が渦巻いていた時だ。