歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

韓国ひとり旅(1997年) <19> 4日目ー1 「慶州は母の呼び声」

<4日目ー1

1997年3月15日 土曜日 大邱 小雨 

 

<大邱にもう一泊>

AM7:40頃目覚める。昨日聞こえていたカラオケの声が、夜中になって聞こえなくなったのでゆっくり眠れた。
窓から外を見ると、今日も雨模様だ。
来る予定もなく来てしまった「大邱(テグ)」なので、改めてガイドブックを見る。

此処は韓半島の東南部にある、韓国第3位の大都市だ。その位は知っていたが、周囲を山に囲まれた盆地で、夏は暑いらしいが、今は平均気温で14~15℃くらい。
やっぱりこんな厚いコートを羽織っている人は居ないわけだ。そして雨が少ないらしい。しかし、着いた昨日も今日も雨だなぁ。

 

9:00頃フロントで、今度は初めから英語で、「I`d like to stay one more night.」と、今晩もう1日延泊を依頼し、W25,000を支払う。
そして「My luggage is in the room.」と言って、荷物は部屋に置いてあると伝える。
昨日と違う女性のフロントだが、韓国語しか話さず、分かったのかどうか分からないが、延泊の宿代は受け取ったから大丈夫だろう。

昨日は、今日すぐに鉄道でソウルまで行ってしまおうと思っていたが、オンドルパンでゆっくり寝られて、身体が回復したためか、昨晩の「湯の町エレジー」の合唱のせいか、ソウルや釜山ではない内陸の韓国の町に興味が湧いてきた。

それに、若い時に読んだ森崎和江の「慶州は母の呼び声」という本のことが思い出されたからでもあった。
この本は、確かちくま文庫か何かで読んだのだと思う。

 

「慶州は母の呼び声」(森崎和江)ちくま文庫版

 

<『慶州は母の呼び声』(森崎和江)>
本の内容は、日本統治下の朝鮮半島に生まれた日本人の少女が、進学のため17歳で日本本土(内地)に渡るまでの、17年間の朝鮮での暮らしを描いたものだ。
文章は、現地の生活の細部にわたる描写で、当時の情景が目の前に蘇ってくるようだった。

森崎は、日本統治時代の昭和2年(1927年)に、慶尚北道の大邱府三笠町に生まれている。小学校5年生の時、父の転勤で慶州に移るが、小学校卒業後、今度は大邱高等女学校に入学して再び大邱に戻って来ている。
父親は教育者で、森崎が生まれたときは、公務員の給与が内地より6割高いためもあり、「大邱公立高等普通学校、つまり朝鮮人の少年たちの5年制の中学校に勤めていた」(森崎和江「慶州は母の呼び声」より)。


当時日本人はこの町を「大邱(たいきゅう)」と呼んでいて、「八十聯隊のある町」、「リンゴ園のある町」とも呼ばれていたらしい。

日本併合(1910年明治43年)以前から、大邱(テグ)は慶尚北道の道庁の所在地で、当時から朝鮮半島の「三大市場のひとつであり、京城、平壌とともに商業の中心地であった」(同上)らしい。
彼女の著書から引用すると、日本に併合されると、「入植した日本人は市場で交易することなく市街地を作り、またたくまに城壁も取りはらわれて新市街が広がった。」(同上)らしい。

 

1930年代の朝鮮半島

 

大邱の町には「神社も建てられた。寺も出来た。第八十歩兵連隊、憲兵隊が置かれた。道庁の他に、隣接する達城郡の郡庁も設置された。地方法院、覆審法院が裁判を司り、警察署が置かれ、商工会議所、米穀取引所、原蚕種製造所、製糸工場、蚕業取引所がつぎつぎに出来た。わたしが生まれた頃は、併合後二十年近かった。都市は整い住宅地ものんびりしていて、急激な変動を子どもに感じとらせぬほどの治世下にあったのだ。

リンゴ園には白い花が咲いた。公園は芝生におおわれ、グラウンドやプールで遊んだ。ゴルフ場もあり、水道、電気、電話などで近代化された生活を植民者の大半は営んでいた。人口は年を追うごとに増加したが、昭和初期の大邱は朝鮮人およそ15万、日本人3万、その他の人びとが少数という具合だった。」(同上)

「その他の人びと」とは、少数のシナ人(中国人)や本国の革命を逃れてやってきた、いわゆる白系ロシア人たちだった。

因みに、当時(1927年ごろ)のソウルの人口は約30~40万人、そのうち日本人や中国人など、いわゆる外国人が3分の1を占めていたらしい。

森崎和江が生まれた「三笠町」と言ういかにも和名っぽい名前の町も、「大邱府の南の郊外にある日本人住宅地」で、「朝は八十連隊の営所から、起床ラッパが風のまにまに住宅地までとど」(同上)くような場所だった。


当時の朝鮮半島には、ソ連との国境警備と朝鮮半島中南部への守備の為、1915年以降日本陸軍は朝鮮軍として常時2個師団を常駐させていたらしい。配備されていた師団は、第19師団(通称号「虎」)と第20師団(「朝」)だ。

部隊規模は、日中戦争がはじまった昭和12年以降に設けられた、主力の歩兵部隊を「歩兵団」としてその隷下に3個歩兵連隊を持ついわゆる「3単位師団」ではなく、師団が2個旅団隷下に4個歩兵連隊を持つ「4単位師団」だったので兵員数も多かった。
平時編成では1師団が12,000~15,000名、1歩兵連隊の兵員数は約3,000名程度と言われている。

当時ソ連との国境警備を担っていた第19師団は、いまは北朝鮮領内となっている羅南(ラナム)と咸興(ハムン)に駐屯していた。
第20師団は朝鮮半島中南部への守備の為、師団隷下の第39旅団のうち歩兵第77聯隊が平壌(ピョンヤン)に、第80聯隊が大邱(テグ)に駐留し、第40旅団隷下の歩兵第78聯隊、第79聯隊はともに京城(ケイジョウ、キョンソン、現ソウル)の龍山(ヨンサン)に駐屯していた。

従って、京城(ソウル)より南部に駐屯する大規模な兵力は、大邱の歩兵第80聯隊しかなかったので、「八十聯隊のある町」が大邱を特徴付ける呼び名となったのだろう。

 

1917年(大正6年)大邱の旧市街

大邱の第八十歩兵連隊兵営(1917年) 市内中心部の南に位置している



しかし植民した日本人たちの周囲には、当然の様に多くの朝鮮の人たちが暮らしていた。

当時日本人の多くは、朝鮮人を「ヨボ」と呼んで蔑んでいたらしい。「ヨボ」とは、朝鮮人同士で呼び合うときに、「もしもし」の意味で「ヨボ」と言ったり「ヨボセヨ」と言ったりするかららしい。
森崎一家がある日の夕方、水の少ない川の畔まで散歩に出る。母が、この川が「大邱(たいきゅう)川」かと聞くと、父は「朝鮮人は新川と言っている。大邱(たいきゅう)川とは言わないそうだ」と答える。この川は洛東江の上流にあたり、冬はこの川でスケートをするんだと教えている。

私が東大邱から大邱駅に向かうとき、バスで渡った川だ。
新川(シンチョン)は南下して、密陽(ミリャン)市の三浪津(サムナンジン)で、洛東江(ナクトンガン)に合流する。

「『川の向こうは朝鮮人の村かしら。畠のようですね』と母。『お祭りかしら、何かしてますよ、ほら、ほらほら』」と言う間に、丸い屋根の家々から、白いのぼりを担いだ白い服を着た朝鮮人の人達が、太鼓を叩いて「ジーンチ、ナーレー」「チョッタ、チョッタ」と言いながら列をなして練り歩いているのを見る。

「わたしは人さらいにさらわれる広い畠の、その向こうが、夕空に続く川原であり、歌い踊る人びとの村であったことに心惹かれた」(同上)と書いている。

また森崎は、小学校入学前のある日、母や妹弟や手伝いの朝鮮人の娘と一緒に父親の勤める高等普通学校の運動会を見に行った。
「アブジやオモニがべんとうを持って大勢来ていた。生徒たちはまっ白なランニングシャツと白いトレパンで器械体操をしたり、リレーを競った。アブジたちは朝鮮語で息子に声援した。オモニが坐っているござを叩いて叫ぶ。
『アイゴ、チョケッタ!』最高最高と叫んでいるのだ。
『アイゴー』泣き真似をして天を仰ぐオモニもいる。息子が追い越されたのだ。」
日本のかつての運動会の様だが、違ったのは、「先生はほとんど日本人であり、日本語で号令をかける。生徒たち(朝鮮人)の掛け声も日本語」だったことだ。


森崎が小学校5年生の時(1938年、昭和13年)に、父の転勤で慶州(キョンジュ)に移っている。慶州は旧く新羅の都だったところだが、大邱に比べると人口は3分の1くらいの、周囲に古墳や遺跡、田園の広がる小さな地方都市だった。

そこで森崎が耳にしたのは、「夕焼けが消える時刻になると、遠く近くで子供を呼ぶオモニの声が野面を渡る。ヤンスニーなどと、ゆるくながながと戸外に向かって子の名を呼んでいるのである。夕食を知らせているのだった」(同上)という、野面を渡る「母の呼び声」だった。


しかし入植した日本人家族と朝鮮人とのかかわりは、必ずしも多くなかった様だ。
森崎は書いている。
「私たち家族は朝鮮語を使えなかった。接する場所も少ない。
『朝鮮マル、モルゲッソよ』
オモニに話しかけられると、聞き覚えのことばで母はそう言った。朝鮮語は知らないの、と。
そしてオモニに問いかける。
『イルボンマル、オモニ、アンデ?』
『アンデヨ』
『日本語、おかあさん、ダメなの?』と問い返すと、オモニは『だめ、だめ』と笑って首をふる。」(同上)

しかし一家が慶州に移ってからは、市場で母も面白いのか「何かを見つけて、『オルマ?』とたずねる。そして『おお、ピサよ』と言う。
あとで「ピサって何?」と聞くと「高いってこと」と少しずつ馴染んでいった様だ。

この辺りは、私の様な新米の旅人と同じだったようだ。