<9日目ー15>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<東南アジアの武装蜂起 オランダ領東インド(現インドネシア)>
1948年2月19日から2月25日まで、インド西ベンガル州にあるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ Kolkata)で「アジア共産主義青年会議」(カルカッタ会議)が開催された。
その頃インドネシアでは、1948年9月、東ジャワのマディウン(Madiun)で、1947年7月以来オランダとの戦争状態に入っていた。
インドネシアは、16世紀の大航海時代、香辛料を求めて来航したオランダの東インド会社(VOC : Verenigde Oost-Indische Compagnie)の支配をうけるようになっていた。
1800年にはポルトガル領の東チーモールを除く東インド諸島全体が、オランダ本国の直接支配を受ける様になった。
「強制栽培制」などの過酷な植民地支配に対し、1912年、華僑の商業支配からインドネシア商人の利益を守る組織から、オランダの植民地支配に対する抵抗組織となったイスラム同盟(サリカット・イスラーム)が結成。
1920年にはインドネシア共産党(PKI : Partai Komunis Indonesia)、1927年には「民族の独立」を掲げた、スカルノ(Soekarno)らによるインドネシア国民党(PDI-P : Partai Domokrasi Indonesia-Perjuangan)が結成された。
しかしインドネシア共産党も、スカルノやハッタ(Mohammad Hatta)の民族主義運動もオランダ植民地政府に弾圧され、非合法化されていた。スカルノやハッタは逮捕され流刑に処されていた。
1939年欧州で第二次大戦が勃発。オランダ本国もドイツに占領された。
しかしオランダ植民地政府は、連合国側に与して、日本に対し石油禁輸を含む「ABCD包囲網」に加わった。
1942年1月11日、オランダ領東インド(現インドネシア)に対し日本陸軍第16軍(今村均中将)が攻撃をはじめ、3月1日にはジャワ島に上陸した。
以後バタビア(Batavia 現ジャカルタJakarta)を占領し、3月9日にはバンドン(Bandung)でオランダ植民地軍を降伏させ、蘭印全土を占領。軍政を敷いた。
日本は流刑地にあったスカルノを救出し、オランダが長年行ってきた愚民政策を改め、現地に高等教育機関を設置するなどした。
さらに司令官以下全将兵がインドネシア人である郷土防衛義勇軍(ペタ PETA)を発足させ、将校の養成も行った。
しかし戦局が悪化すると、独立を許容する方針を示し準備委員会が設立された。
1945年8月15日、日本降伏。
スカルノやハッタら民族主義者は、17日、ジャカルタで「インドネシア共和国」の独立宣言を発表した。
しかしこれを認めず、インドネシアを再植民地化するため乗り込んできたオランダ軍と独立戦争が始まった。
インドネシア共和国軍は郷土防衛義勇軍(ペタ PETA)を中心に、一部の旧日本軍人も加わっていた。
当初は駐留軍としてイギリスなどの軍隊が駐屯して治安を守ったが、1947年1月24日、イギリス軍の蘭印からの撤退を待っていたかのように、旧宗主国のオランダ軍は東部ジャワのクリアン(Krian)とシドアルジョ(Sidoarjo)を攻撃。6月28日、オランダ軍はインドネシア全域で進軍し、スラバヤ(Surabaya)、共和国の臨時首都だった古都ジョグジャカルタ(Yogyakarta)を空爆する。
7月21日、オランダ軍、ジャワ、スマトラ、マドゥラ島(モルッカ諸島)などインドネシア共和国内と認めた地域へも全面攻撃を開始。
ジャワ島のジャカルタ、チルボン(Cirebon)、スマトラ島のメダン(Medan)、パレンバン(Palembang)などの主要都市を占領。
この間オランダ軍は、ゲリラ討伐として農村部の住民の大量虐殺などを行っている。
1947年8月4日、この事態に1945年10月24日に出来たばかりの国連が介入。停戦交渉が始まり、1948年1月17日にようやく停戦協定(レンヴィル Renville協定)が成立した。
しかし、この協定でインドネシア共和国領とされたのは、ジャワ島中部、西端部、マドゥラ島のみであった。
更にこの間にも、オランダ軍は占領地域の土侯国に自らの傀儡国家や自治領を作って、支配地域を広げようとしていた。
1948年9月18日、これに反発したPKI(インドネシア共産党)の影響下にある部隊が、ジャワ島東部のスディウンでオランダ植民地政府機関を襲撃する。
これは直ぐに制圧されたが、12月19日、今度は再びオランダ軍による全面攻撃が開始された。
共和国側は、スマトラに臨時政府を置き徹底抗戦を宣言し、組織的な抵抗を開始。各地でゲリラ戦を展開していく。
インドで「カルカッタ会議」が開かれたのは、まさにこんな時期だった。
その後、1948年12月24日、国連はオランダに、スカルノやハッタなど共和国指導者の釈放を要求する決議を採択。
国際世論は、植民地主義に固執するオランダを非難。アメリカは当時ヨーロッパに対して行っていた経済援助(マーシャルプラン)の、オランダへの供与の停止を通告。
同時にオランダは、インドネシアにおける過大な軍事費支出が、第2次大戦で疲弊したオランダ経済では耐えられなくなっていた。
1949年8月23日から11月2日まで、オランダの首都ハーグで、インドネシア問題を解決するための「ハーグ円卓会議」が開かれる。
この結果、①諸邦連立の「インドネシア連邦共和国」の成立。②オランダは無条件で、インドネシアの主権を「インドネシア連邦共和国」に移譲する。③「インドネシア連邦共和国」は、「オランダ=インドネシア連合」に参加し、オランダ女王をその元首とする。④「インドネシア連邦共和国」の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する。などとなっていた。
<東南アジアの武装蜂起 フランス領インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボジア)>
インドシナ(ベトナム)では、すでにべトミン(Viet Minh)がフランス植民地政府に対して、武装蜂起していた。
1858年9月、フランス帝国が阮朝のベトナムのダナンを攻撃して以来、1887年10月ベトナムはフランス領インドシナ連邦に組み込まれていた。
南北に長いベトナムは、北部の「トンキンTonkin(東京)」、中部の「アンナンAnnam(安南)」、南部の「コーチシナCochinChina」に分かれている。
トンキンとアンナンは保護領、コーチシナは直轄植民地、カンボジア、ラオスも保護領だった。
1940年5月、欧州で第二次大戦が始まり、電撃戦によりドイツ軍がフランスに侵攻し、6月22日にはフランスは降伏。親独派のヴィシー政権が誕生する。
これを受けて、同年9月にはフランス領インドシナ(仏印)で、ハノイから中国の雲南省に延びる「援蒋ルート」遮断を企図して、日本軍第5師団(通称号「鯉」)による北部仏印進駐が行われた。
1945年8月15日、日本は連合国に対し無条件降伏。
8月18日、べトミンが蜂起。9月2日には、ベトナム帝国の阮朝バオ・ダイを退位させ、ハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言した。
しかし9月には連合国軍、並びに旧宗主国のフランスが進駐してくる。
1946年2月28日から、べトミンとフランスは「ハノイ暫定協定」を結び、フランス連合インドシナ連邦の一国としてベトナム民主共和国の独立と、トンキン地方へのフランス軍駐留を認めた。
同時に3月6日、フランスは南部のプランテーション入植者たちの既得権益を守るため、南部にコーチシナ共和国を成立させた。
しかし1946年11月、ハイフォンでべトミンとフランス軍が交戦。第一次インドシナ戦争が始まった。
12月19日には、フランス軍はトンキン・デルタ地域やハノイなどを攻撃。
1947年2月、フランス軍は、中部でダナン、フエ、プレイクなどの沿岸部を占領。べトミンは内陸の農村地帯に退却し、ゲリラ戦を展開。さらに中部高原、中部沿岸部、南部メコンデルタでもべトミンが次第に優勢になって行った。
インドで「カルカッタ会議」が開かれたのは、まさにこんな時期だった。
この後、1949年、フランスはサイゴンにバオ・ダイをを復位させ、ベトナム国を独立させたが、1949年10月に中華人民共和国が成立すると、1950年1月には、ソ連と中華人民共和国がベトナム民主共和国を承認。本格的に武器援助を開始することになる。
さらに、1951年3月、ラオス、カンボジアの国民戦線と会合し、インドシナ民族統一解放戦線が結成される。
1953年5月のディエンビエンフーの戦いを経て、1954年7月21日のジュネーブ協定で、北緯17度線を境に、両軍を分離。
1956年にベトナム全国統一選挙を行うことを定めたが、協定に参加しなかったアメリカが統一選挙を拒否し、1955年10月に南部にベトナム共和国(南ベトナム)を成立させた。この後は、フランスに代わってアメリカが、本格的にインドシナに介入するようになっていく。