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マレーシアひとり旅(2024年) <37> まだまだ9日目 「カルカッタ会議」と東南アジアの武装蜂起(2)フィリピン

<9日目ー14>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。

 

<東南アジアの武装蜂起 フィリピン>
1948年2月19日から2月25日まで、インド西ベンガル州にあるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ Kolkata)で「アジア共産主義青年会議」(カルカッタ会議)が開催された。

その頃フィリピンでは、1948年5月、「フィリピン抗日人民軍 フクバラハップ」が、フィリピン第3共和国に対して武装蜂起した。

フィリピン(Philippines)は、その国名が示すように、フェリペ2世が国王であったスペインの植民地だった。
1521年、マゼラン艦隊が初めて世界一周の航海の途中で発見したため、その後ポルトガルと世界を二分する1529年の「サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)」によって、フィリピンはスペイン帝国の領土となった。
その後長く宗主国だったスペインは、カリブ海の島を争って1898年に起きた米西戦争(Spanish-American War)でアメリカに負けたため、カリブ海や太平洋における旧スペイン領の管理権を手放すことになった。

1898年12月10日、今度はパリ条約で、フィリピンはアメリカの植民地となった。
この時、フィリピンでは、1896年から続く独立運動の最中だったが、1899年2月から1902年7月までの米比戦争(Philippine-American War)で、約60万人のフィリピン人が虐殺されて、アメリカの植民地支配が確立したと言われている。

1929年世界恐慌が起こると、植民地フィリピンから無課税の砂糖がアメリカに大量に入ってきたため、アメリカ本土の甜菜糖(てんさいとう、ビート)やキューバ糖に大打撃を与え、資産家など破産する者が続出した。
このため、フィリピン糖排斥の声が高まり、関税を掛けることを目的にフィリピンを独立させるべきとの意見が起こってきた。

もともとアメリカの植民地経営は苛烈なものだった。
蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)でオランダが行った「強制栽培制度」と同じく、フィリピンの産業の中心である農業を、砂糖やタバコに限定して栽培させ、それらをすべて植民地政庁が買い上げる代わりに、マッチやロウソクなどの消耗品から、電化製品まですべての生活必需品をアメリカから買うようにさせていた。
そのため、米が自給できず、仏印(仏領インドシナ)などから輸入していたほどだった。
1934年、アメリカ議会は、フィリピンにアメリカとのこのような従属的な貿易を続けさせる権利を確保したうえで、フィリピン独立法を可決した。
1935年アメリカ合衆国の議会でフィリピン独立法が承認されると、アメリカの海外領土の政庁だったフィリピン諸島政府に代わって、フィリピンの独立準備の暫定政府である「フィリピン・コモンウェルス Commonwealth of the Philippines」がフィリピンを統治することとなった。
独立までの準備期間は10年間で、1946年の7月4日に独立すると定められていた。

しかし1941年、日本軍の南方作戦開始によって、事態は大きく変わっていった。
いわゆる「あ号作戦」の裡の「M作戦」であったフィリピンでは、対英米戦開戦の日12月8日に、早くも台湾の飛行場を飛び立った海軍第11航空艦隊の攻撃機が、マニラ北西の米空軍クラーク基地を空襲していた。
その後12月22日には、日本陸軍の第16師団、第48師団、第65旅団を基幹とする第14軍がルソン島に上陸。
翌1942年1月2日、無防備都市「OPEN CITY」を宣言したマニラ(Manila)を占領。アメリカ軍のフィリピン防衛を担っていたアメリカ極東陸軍(USAFFE)司令官マッカーサー元帥を、オーストラリアに追いだして、5月6日フィリピン全土を占領した。

首都マニラ占領後の1942年1月3日から、日本軍の軍政が始まった。
軍政監部のもとに、フィリピン・コモンウェルスに代わって比島行政部が設置され、穏健な民族主義者と目されていたヴァルガスが長官となった。機構も、職員もコモンウェルス政府とほぼ同じだった様だ。穏健派の政治家は、みな大地主、大商工業者、富裕層だった。
民間では、日本国内の「大政翼賛会」の様な組織として「カリパピ 新比島奉仕団」が結成された。

しかし太平洋の各戦線で日本軍の劣勢が現れてくると、1943年6月にフィリピン独立準備委員会を設置。
1943年10月14日には、大東亜共栄圏の一員として「フィリピン第2共和国」が、ラウレル(Jose Laurel)を大統領として誕生。日本と同盟関係を結んだ。

一方2つの組織が、日本占領下で抗日運動を続けていた。
ひとつはアメリカ極東軍司令部指揮下の「フュサッフェ=ゲリラ」(USAFFE)。
もう一つは、戦前の社会党、共産党系の労農運動を中核とする「フクバラハップ 抗日人民軍」(HUKBALAHAP)だ。1942年3月、ルソン島の最も貧しい州のひとつパムパンガ(Pampanga)で、農民や労働者によって結成され、指導は1938年社会党と共産党が合同した新共産党だった。
これら抗日組織のメンバーは、全体で30万人と言われている。
日本の統治は、ゲリラの激しい抵抗を受け、殆ど機能を奪われていた。しかし一方、ルソン島で活動のフクバラハップと、他の島で活動のゲリラ組織とは反目することも多く、しばしば流血の衝突も起きていた。

 

フクバラハップの指導者ルイス・タルク

 

この間にも戦局は大きく動いていた。
1944年6月、マリアナ沖海戦で大鳳、翔鶴の正規空母2隻を失うなど大敗した日本海軍の連合艦隊は、制空権、制海権を失い、7月9日絶対国防圏としていたサイパン島が陥落。国内では東條内閣が退陣。
以後、米空軍のB-29爆撃機により、東京や中部地方への空襲が行われるようになった。

大本営が新たに立案した「捷一号作戦」により、フィリピンの防衛が強化された。
新しく第14方面軍が創設され、1944年10月6日、マレー作戦で勇名を馳せた山下奉文大将が新たな司令官としてルソン島に赴任。
ルソン島に4個師団、レイテ島に1個師団、ミンダナオ島に2個師団など大部隊が増強配備された。
このため、「強制栽培制度」で自給できない米など、日本軍が軍票で大量の物資を買い占めてしまったため、一気にフィリピンの経済はインフレが進行し、ハイパーインフレーションとなった。米の価格は1943年から1年の間に1000倍になって、フィリピンの人には買えなくなってしまった。

しかし、1944年10月12日から3日間行われた台湾沖航空戦の戦果を、海軍が大戦果と誤報し、陸軍がそれを信じて、フィリピン戦の主戦場を従来のルソン島からレイテ島に急遽変更。これが禍をもたらし、1944年10月17日のレイテ沖海戦、10月20日のレイテ島の戦いにいずれも敗北。
1945年1月9日に、アメリカ軍がルソン島リンガエン湾に上陸した。

首都マニラに対する米軍の爆撃と市街戦によって、多くのフィリピン市民が亡くなった。1945年3月3日、遂にアメリカ軍によってマニラは陥落した。

1945年8月15日、日本無条件降伏。
アメリカ軍の軍政下、1946年4月に総選挙を行い、1946年7月4日、マニラ条約によって、フィリピン第3共和国が成立した。大統領はマヌエル・ロハス。
しかし経済的には、戦前の様にアメリカに依存したままだった。
また1947年には、比米軍事基地協定を結び、始まっていた冷戦、共産主義陣営への前線基地となって行った。

国内では19世紀から続く大地主制度(アシエンダ Hacienda)は変わらず、アシエンダ打倒を掲げる共産系のフクバラハップが勢力を拡大していた。
1948年3月、フクバラハップや全国農民同盟は非合法化され、ルソン島では政府軍、大地主(アセンダード Hacendado)の私兵と、フクバラハップとの戦闘が始まった。
インドで「カルカッタ会議」が開かれたのは、まさにこんな時期だった。

その後、一時は首都マニラを攻略を噂されるほどの勢力となったが、アメリカはフィリピンへの軍事援助を強化。
1950年代に入って、ラモン・マグサイサイ(Ramon Magsausay)国防相(のち第7代大統領)による掃討作戦で、1950年10月、司令塔だったフィリピン共産党(PKP : Partido Komunista ng Philipinas)が壊滅し、1951年にはフクバラハップも壊滅した。

政府軍とフクバラハップの戦闘