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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <11> まだまだ4日目 満州事変と昭和恐慌からの脱出

<4日目―4>

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。

モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本軍はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。

<満州と日本>
「満州」とは中国大陸の東北部、遼寧省(1928年当時は「奉天省」)、吉林省、黒竜江省をさす地域で、「東三省」とも云う様だ。
1912年の辛亥革命で倒れるまで中国大陸を支配していた「清」(大清Daqing)は、満州族が支配する国だった。
女真族(満州人)が1616年に盛京(ムクデン現在の瀋陽)を首都に「後金」国を作り、1636年に国号を「清」、民族名を「満州」と改めた。1644年に前王朝の「明」が滅んだあと、首都を北京に遷都して中国大陸を支配していた。

1894年(明治27年)から1895年にかけて、朝鮮半島を巡って日本と清国の間で戦われた日清戦争の結果、下関条約で当時の「清」より遼寧省の遼東半島を獲得したが、その後のロシア、フランス、ドイツの所謂三国干渉で中国(清)に返還。
しかしその後、1896年南下政策をとるロシアが「清」より満州で鉄道敷設の権利を得て、東清鉄道を敷設。1898年には遼東半島の旅順、大連の租借権(1923年まで)や、ハルピンから旅順までの南満州支線を敷設する権利を獲得した。

1900年、北清事変(義和団事件)が起こると、日本、ロシアを含む八か国連合軍が北京を占領。事件後処理を決めた北京議定書で、列強の中国進出が加速した。
各国が軍隊を引き揚げたにも拘わらず、ロシアは東清鉄道守備の名目で満州を軍事占領し続け、さらに朝鮮半島との国境である鴨緑江の沿岸まで占領したため、1904年2月8日日露戦争が勃発した。
1905年、勝利した日本は、ポーツマス条約によって遼東半島の旅順、大連の租借権、長春以南の鉄道(南満州鉄道)と付属の権利をロシアから獲得した。
この遼東半島の関東州の守備、および南満州鉄道付属地の警備を目的とした守備隊が「関東軍」だ。
さらに1907年の第一次日露協約では、日本は南満州、ロシアは北満州の権益を持つことを確認している。この間、本来は「清国」の領土であるにも関わらず、その権益は占領した国の間で取引されていた訳だ。

<辛亥革命>
しかし1911年(明治44年)10月10日、1901年に清の軍制改革で誕生した新式陸軍内の革命派が起こした武昌起義(武装蜂起)により、中国で「清打倒」「漢族による共和制確立」を合言葉に、「辛亥革命」が起きた。
この革命派は、1905年8月20日孫文が中心となって、日本の東京で結成した「中国同盟会」などが中心になっていた。
武昌に続き中国各地で蜂起が起きて、中国の内地18省のうち14省が独立を宣言。「清」が掌握していたのは、直隷(北京など周辺)、河南省、甘粛省、満州の東三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)だけだった。
1912年(明治45年)1月1日、孫文は初代臨時大総統として、臨時首都南京で「中華民国」の成立を宣言した。
2月12日には「清」の最後の皇帝「宣統帝」が退位。

しかし「辛亥革命」と中華民国はこの後混迷を続けてゆく。
2月13日には、孫文が辞職。3月10日、袁世凱が中華民国第2代臨時大総統に就任すると、首都を北京に遷都する。いわゆる「北洋政府」だ。
1912年8月、「中国同盟会」などを統合して「国民党」を結成。翌1913年(大正元年)、第1回国会選挙で、国民党が第一党になる。

1914年7月、第一次大戦が勃発。1918年11月まで4年3カ月戦火が続くことになる。
1915年1月18日、日本政府(大隈重信内閣)は袁世凱の中華民国政府に対し、「対華二十一か条要求」を提出した。
これは「中華民国」の成立以降、中華民国と日本政府との正式な外交条約はいまだ締結されておらず、過去の日清間の諸条約の継承関係も明確ではなく、分けても旅順、大連の租借権の期限(1923年)をまじかに迎えることが外交上の懸案だったためだ。
交渉の結果、中華民国政府(北洋政府)は、旅順、大連の租借権の期限を99カ年延長、南満州鉄道及び安奉線の経営権や付属の利権、内蒙古東部の権益などを認めた。


<満州の排日運動>

その袁世凱が1916年に死去すると、中国国内は軍閥が割拠する動乱の時代に入って行った。
1919年には、中国で民族の主権回復を目指す「五・四運動」が起こり、中国国民党が結成された。
1918年11月11日に第一次大戦の休戦が成立し、1921年のワシントン会議では、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等がうたわれ、中国国内でナショナリズムが巻き起こっていた。
この中で、北方では軍閥が中華民国政府の主導権を巡って争い、南方では国民党が権力を掌握しつつあった。
1926年(昭和元年)7月から1928年12月にかけ、蒋介石率いる国民党の国民革命軍が北方の軍閥に対し「北伐」を開始する。
この最中の1928年(昭和3年)7月19日、中華民国政府は「日清通商航海条約」の破棄を一方的に通告してきている。
「北伐」の結果、中華民国の「北洋政府」は滅亡。最後の元首だった奉天軍閥の張作霖は、1928年6月4日満州に戻る途中で、日本の関東軍によって乗っていた列車ごと爆殺されてしまう。

その後1928年12月末、東三省(満州)を支配していた張作霖の息子の張学良率いる奉天軍閥は、易幟(えきし)し、国民党の指揮下に入った。
「易幟(えきし)」とは、北洋政府の「五色旗」から国民党政府の「青天白日満地紅旗」に旗を変え、降伏したとの意味らしい。

その後満州各地では、1915年(大正4年)に調印された「対華二十一か条要求」による「南満州及び東部内蒙古に関する条約」第2条に基づき、日本に対して認められていた土地の商租権を否定して、満州各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者の立ち退きが強要される事件が頻発した。
1910年8月22日の日韓併合によって、朝鮮人は日本人として扱われていた。
その後も、1931年2月の朝鮮人農民と中国人農民の争いである「万宝山事件」や、1931年6月27日、興安嶺付近を調査中の日本軍人の中村大尉ら一行が、張学良軍に捕まり銃殺された「中村大尉事件」などが続き、治安の悪化は深刻さを加えていた。

<満州事変と満州国>
1931年(昭和6年)、日本本土では昭和恐慌の最中、9月18日夜10:30、中国東北部、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された。関東軍は張学良の「東北辺防軍」による破壊工作と発表し、軍事行動に移った。
この事件は、後に関東軍の謀略であることが判明。これが「満州事変」の始まりだった。

関東軍は直ちに、現場近くの国民革命軍の北大営を占領。9月19日には奉天占領、その後長春、営口を占領した。
当時の若槻礼次郎内閣は事変の「不拡大方針」を打ち出したが、満州の東北辺防軍は約45万人に対し、関東軍は1万人と戦力差が大きかったため、9月21日には朝鮮軍の独断で、混成第39旅団が国境を越えて関東軍の指揮下に入った。

9月21日、当時北平(北京)に居た張学良は、国際連盟に提訴すると同時に、9月27日には錦州に仮政府を置いた。
10月8日、関東軍はその錦州を空爆する。
11月19日、黒竜江省のチチハルを占領。翌1932年(昭和7年)1月3日には錦州を、2月5日にはハルピンを占領し、柳条湖事件以来約4カ月半で東三省の主な都市、鉄道沿線を軍事占領した。

満州事変(靖国神社遊就館図録より)

1932年(昭和7年)3月1日には、清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を執政とする
満州国が建国される。
その後1933年(昭和8年)5月31日、中華民国との間で塘沽停戦協定が結ばれ、一旦柳条湖事件以来の軍事衝突は停戦となったが、大陸ではなお戦火が拡大していくことになる。

満州国の建国

<高橋財政と恐慌からの脱出>
満州事変の最中、1931年12月に組閣した犬養毅内閣の高橋是清蔵相は、昭和恐慌からの脱出のため経済の活性化を図るべく、井上前蔵相とは正反対の政策を取った。

就任と同時に、即時に金輸出の再禁止を行った。
金本位制からの離脱により、金の量に縛られず、政府の管理下で貨幣の発行量を調整できるようにした。赤字公債(国債)を全額日銀が買い取る非募債発行として、それまでの8倍強の膨大な量の貨幣を供給したらしい。
この結果インフレーションとなり、金解禁時「100円=49.845ドル」に固定されていた円の価値は、100円=28~29ドルまで暴落した。

このため円安ドル高となり、相対的に日本製品が安くなったため、輸出が一挙に拡大した。特に中国、インド、東南アジア向け綿織物の輸出が伸びた。このため同じ地域に綿織物を販売していたイギリスと貿易摩擦を生じることとなった。
反面、輸入に頼らざるを得ない綿花や石油などの原料価格が高騰した。

国内では、製鉄業や化学工業など海外製品のシェアが高かったものも、価格の高騰で輸入が難しくなったため、輸入代替工業化が進み、技術革新も相まって国内の重化学工業が目覚ましく発展してきた。
このため、日本ではまだ出来ない高品質な工作機械や鉄屑などの原材料、石油などの輸入が大幅に増えた。また紡績、綿織物業の発達も、綿花の輸入の増加を促した。これにより、主な供給国であるアメリカへの経済依存度が更に強まって行ったようだ。

赤字公債の発行で、大量に供給された資金の投入先は、特に疲弊していた農村と、満州で拡大する戦火のための軍事費だった。
農村に対しては「時局匡救(きょうきゅう)事業」として、公共事業を行った。疲弊した農民に労賃収入を与えるために、1932年から1934年まで各地で土木事業を行った。

もう一つの軍事費は、公共投資が1934年で終わっているのに対し、拡大し続けていた。政府予算の一般会計に於ける軍事費の割合は、1931年(昭和6年)が30.8%だったものが、1935年(昭和10年)には46.9%と膨張している。
日本は1934年にワシントン海軍軍縮条約を廃棄し、軍拡競争に突入していたのだ。
この軍事費の多くが軍需産業として重化学工業に流れ込んでいて、1937年(昭和12年)には重化学工業と綿工業が日本経済を牽引する様になっていた。

アメリカは、GNPを1929年のピーク時の水準に回復させるのに、1940年まで11年間要したが、日本はこれらの積極的な経済政策と、新たに満州を経済圏として持ったため、1934年(昭和9年)ごろには、世界に先駆けて恐慌から脱出することが出来た。

この高橋財政政策は、ケインズ理論(ケインズJohn Maynard Keynesの「雇用・利子および貨幣の一般理論」の発表は1936年)の先駆けの様な政策で、恐慌からの脱出に大きな効果を上げた。
しかし高橋蔵相は、この政策を続け赤字公債が増大することに危機感を覚え、景気回復が鮮明になった1936年(昭和11年)には積極財政から軍事費の削減を含む緊縮財政への転換を図ろうとしたが、2月26日に起きた軍事クーデター「二・二六事件」で陸軍の青年将校らに暗殺されてしまった。

その後イギリスはスターリング・ポンド・ブロック、フランスはフラン・ブロック、アメリカはドル・ブロックなど、それぞれブロック経済圏を築きつつあったが、日本も「日・満・支那」の円ブロック形成を目指して、アジア進出をさらに加速させるようになっていく。