歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <12> まだまだ4日目 中国大陸での戦火と対英米戦争前夜

<4日目―5>

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。

モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。

<日本の中国大陸侵攻>

<盧溝橋事件>
日本は、1931年(昭和6年)9月18日に起きた満州事変により、中国大陸東北部への侵攻を続けており、1932年3月1日には「満州国」の建国を宣言した。
更に関東軍は華北分離政策を進め、熱河省や河北省に出兵していた。

一方中国からの提訴を受けた国際連盟は、1932年にリットン調査団(Lytton Commission)を派遣して調査し、満州国は日本の侵略行為であるとした報告書を提出。
1933年3月27日、国際連盟はリットン調査団報告書を採決したため、これを不服として、当時常任理事国でもあった日本は連盟を脱退する。

1935年(昭和10年)11月には、日本軍は満州国と隣接する華北5省を分離させ、傀儡政権を建てていた。
1937年(昭和12年)7月7日に北京郊外で起こった盧溝橋事件により始まった中国(中華民国)との戦闘により、日本軍は北平(北京)や天津を占領したが、8月13日の第二次上海事変で戦火は大陸全土に広がり「支那事変」(日中戦争の当時の呼称)に発展していく。
因みに「盧溝橋事件」で、中国国民革命軍第29軍と最初に交戦したのは、当時北平(北京)に駐屯していた支那駐屯歩兵旅団(旅団長は河辺正三郎少将)隷下の歩兵第一聯隊(連隊長は牟田口廉也大佐)だが、この両名は奇しくも1944年(昭和19年)3月にビルマ戦線で「インパール作戦」を始めた、緬甸(ビルマ)方面軍司令官と隷下の第15軍司令官だ。

<アメリカ「中立法」と支那事変>
当初アメリカは、第一次大戦でヨーロッパ列強の対立に巻き込まれたとの認識から、「孤立主義」を掲げ、1935年8月に、交戦国への武器・弾薬等の軍需品と借款の供与を禁止した「中立法」(Neutrality Act)を制定していた。
当時中国大陸では、日本や中国が事実上の交戦状態であったにも関わらず、両国とも相手国に対し宣戦布告を行わなかったのは、このアメリカの「中立法」に抵触することを避けたためと言われている。
当時アメリカは、日本にとって物資と資金の最大の供給国であった。このため日中の戦いを「戦争」ではなく「事変」と呼称した。

一方中国の国民党政府も、アメリカからの援助を受けられなくなる恐れがあった。
1936年に起きたスペイン内戦では、人民戦線政府は、英仏の不干渉政策と共に「中立法」によってアメリカからの援助を受けられず、ドイツやイタリアなどから援助を受けたフランコ軍に敗れたと言われている。

また当のアメリカも、日中が交戦国であるとみなしてしまうと、交戦国の権利として日本軍が、当時中国との貿易量を拡大しつつあったアメリカ船の臨検、戦時軍需品の捕獲が出来るようになってしまうことも、適用を避けた理由だったと言われている。

しかし中国大陸での日本軍の進攻が進むにつれ、1937年5月の「中立法」改定時に、イギリス国籍の船によるアメリカ製軍事物資の中国への輸出が許可されていた。


この中国大陸への侵攻に伴い、日本軍の兵力も大幅に増強された。
前年の1936年(昭和11年)、日本陸軍全体の兵力は約29万人だったが、「支那事変」が始まった1937年(昭和12年)には、3倍強の95万人と大幅に増えている。
配置は、中国大陸(満州を除く)に50万人、満州・朝鮮に21万人、内地に23万人であった。

1938年(昭和13年)11月20日、国民党政府(中華民国)の首都南京が陥落し、12月13日に首都を武漢に遷都。しかし武漢も日本軍に占領されたため、翌1938年(昭和14年)10月27日内陸奥深くの重慶に遷都していた。

中国との戦争(靖国神社遊就館図録より)

<第二次世界大戦の勃発と対米交渉>

<欧州戦線とアメリカ>
一方ヨーロッパでも、1939年(昭和14年)8月23日に「独ソ不可侵条約」を締結したばかりのヒトラー政権のドイツが、9月1日にポーランドに侵攻。遅れて9月17日にはソ連もポーランドを分割占領するため侵攻している。
これに対して、イギリス、フランスはドイツに対し宣戦布告。
ヨーロッパでは既に第2次大戦が始まっていた。

ヨーロッパ戦線で快進撃を続けていたドイツの前に、1940年6月22日フランスが降伏。
1940年(昭和15年)9月27日、日本、ドイツ、イタリアで、「日独伊三国同盟」が成立した。
この時点では、アメリカはドイツやイタリアに対して宣戦布告はしていない。
アメリカがヨーロッパ戦線に参戦するのは、1941年12月8日、日本の対米宣戦布告により、「三国同盟」の規定に従ってドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告してからである。

私を含め多くの日本人は、何故日本はアメリカとの無謀な戦争を始めたのだろうという問いを、今回も含め何度もするが、では何故アメリカは長年の孤立主義を捨てて戦争を始めたのだろう?
直接の参戦は前述の様に「三国同盟」の規定に従ってだが、アメリカの政府と国民を戦争に向かわせた要因は何だったのだろう。
また、あたかも日本との開戦も織り込み済みの様な、日本を追い詰め、暴発を招くような外交政策にいつから変換していったのだろう。

欧州ではファシズム国家のドイツやイタリアが戦争を始め、アメリカと価値観を共有する国のフランスが降伏し、イギリスも瀬戸際に追い詰められていた。
この間近に迫った現実的な危機を前に、いままでファシズムの台頭を許して来た融和政策が誤りだったとの認識が生まれたこと。さらに政府の中では、欧州戦線への参戦が避けられないとの認識も醸成されていたのかもしれない。
しかし1940年(昭和15年)12月29日のアメリカ大統領ルーズベルトのラジオ演説では、アメリカの直接の参戦ではなく、「民主主義の兵器廠」になることを訴えている。

アジアにおいても、中国大陸へ侵攻する日本が、1921年のワシントン会議で定めた中国の「領土保全」「門戸開放」「機会均等」の合意を無視しているばかりか、中国に於けるアメリカの権益をも犯しており、「三国同盟」の締結で、ドイツやイタリアと同じファシズム国家だとの認識を強めたのかもしれない。

しかし、もし欧州戦線への参戦を前提にすると、アジアでも戦端を開けば二正面作戦(tow-front war)を強いられることになる。そのため当面は日本へは経済制裁を行いつつ、欧州戦線の成り行きを見ていたのかもしれない。

その最中、1941年(昭和16年)6月22日に突如ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。
ドイツ自身が二正面作戦を始めてしまったので、イギリスは救われ、相対的にドイツの力が弱くなった。このため、アメリカはアジアにおいても開戦に対応できると判断したのではないだろうか。
さらに7月28日、日本軍の南部仏印への進駐が、あからさまな「南進政策」の表れであると同時に、アメリカの植民地フィリピンへ直接的な脅威になったことで、アメリカの外交政策が対日開戦も辞さずとの方向に転換されたのかもしれない。

<日米交渉と対日制裁>
米英中蘭は1938年対日経済制裁(ABCD包囲網)に動いていた。
1940年(昭和15年)9月30日には、アメリカの鉄鋼・鉄屑の対日輸出が禁止された。
当時の日本の鉄類の輸入は、アメリカからが全体の約70%。中国16%、その他14%だった。

1941年(昭和16年)3月11日、アメリカで従来の「中立法」を排して、支援国であるイギリス、ソ連、中国、フランス、カナダなどへ武器供与が可能になる「武器貸与法(レンドリース法 Lend-Lease Acts)」が成立している。
中華民国(国民党政府・蒋介石政権)への軍事援助も、これ以降は「レンドリース法」によって行われることとなった。
総額501億ドル、そのうちイギリスに314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、中国には16億ドルが供与されている。

1940年(昭和15年)9月に、いわゆる「援蒋ルート」(仏印ルート)遮断のため、日本軍はフランス領インドシナ(「仏印 」現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の北部(ハノイ)に進駐していた。
しかし1941年(昭和16年)7月28日、日本軍(第25軍)は仏印の南部(サイゴン 現ホーチミン)に進駐した。これによって、フィリピンやマレー(マレー半島)は日本軍機の空襲圏内に入ることになった。

この日本軍の南部仏印進駐で、日本の南進政策が露骨になってきたと感じた東南アジアに植民地をもっていた欧米諸国は、経済制裁をさらに強化する。
イギリスはインド、ビルマ、マレーを、アメリカはフィリピンを、オランダは蘭領東インド(「蘭印」現インドネシア)を植民地としていた。

7月26日、米英は日本資産の凍結を通告。
8月1日、アメリカの対日石油禁輸措置。オランダ領東インド(植民地)政府も日本との石油協定を破棄した。
当時の日本の石油の対アメリカ依存度は、全体の約77%。その他はオランダ領東インド(現インドネシア)の14%、その他9%で、まさにアメリカの対日石油禁輸措置は日本の死活問題だった。