歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <10> まだまだ4日目 ミャンマーでいろいろ考えて昭和恐慌(昭和4年)

<4日目―3>

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。

モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本軍はビルマに進攻したのだろう。泰緬連接鉄道建設を始め、余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えてみる。

<国内不況と世界恐慌>
いつからが最初なのかは、分らない。
1929年(昭和4年)10月24日にアメリカのウォール街で始まった、「暗黒の木曜日」と呼ばれる株価の大暴落(Wall Street Crash)に端を発した経済恐慌は、瞬く間に深刻な世界恐慌(Great Depression)へと広がって行った。
1929年から1932年の間に、世界のGDP(国内総生産)は約15%減少したと言われている。国際貿易は50%以上減少。
アメリカでは、工業生産は50%、実質GNPは35%以上、卸売り物価は30%以上下落したと言われている。また失業率は、1929年が3.2%だったが、1933年には24.9%に上った。

世界恐慌に対し、植民地を持つイギリス、フランスなどヨーロッパ各国やアメリカは、金本位制からの離脱、高関税によるブロック経済圏を造り、自国通貨と産業の保護を行った。
ソ連やドイツなど全体主義の国は、国家による産業統制によって資源や労働力の配分を行い乗り切ろうとしていた。

世界恐慌が波及する前の日本は、主に欧州での争いであった第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)による特需で、大幅な輸出超過になり、設備投資と増産が行われ「大戦景気」に沸いた。しかし欧州各国の復興に伴い一転して過剰生産に陥り、1920年(大正9年)頃から「戦後不況」に見舞われていた。
貿易は輸入超過の状態になり、特に輸出用の生糸や綿糸の価格が急落。特に綿糸は半額以下になっていた。

その最中の1923年(大正12年)9月1日に首都圏を襲った関東大震災の被害により、日本経済が麻痺状態に陥り、「震災不況」が起こった。
銀行が持っていた大量の手形が決済不能になったため、一時的に日銀の特別融資で凌いだが、1927年(昭和2年)、その震災によって決済できなくなった所謂「震災手形」を巡る信用不安が、当時の若槻礼次郎内閣、片岡蔵相の「東京渡辺銀行は破綻しました」との不用意な発言に端を発して、銀行への取り付け騒ぎが起こり「金融恐慌」に発展していた。
この中で、当時三井、三菱と並ぶ大商社だった鈴木商店が、融資元の台湾銀行から貸付金引き揚げを通告され、1927年(昭和2年)4月2日に倒産している。

銀行への取付騒ぎ 金融恐慌

<金解禁と昭和恐慌>
当時世界の主要国は、第一次大戦の戦後復興が進むにつれ続々と金本位制に復帰していたが、日本だけは度重なる不況や恐慌で復帰できずにいた。これにより円為替相場が不安定で、貿易上の大きな阻害要因になっていた。
その中で1929年7月に登場した浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、第一次世界大戦の影響で1917年9月から一時的に中断していた金本位制に復帰することで、円為替相場の安定と、産業の合理化を図ろうとする財政政策を取った。

「大戦景気」で伸びた一部の国内企業は、その後の不況でも政府の救済措置で、高コスト、高賃金のままで生き延びていた。これを整理して、国際競争力を強化することを目指してとった財政政策は「緊縮財政」で、多く出回っていた金の裏付けのないお金の量を減らそうとした。

緊縮財政と、金融引き締めで、「正金」(金と兌換できる正貨)が増えたため、1930年(昭和5年)1月11日に「金本位制」へ復帰することとした。
好景気のアメリカに金解禁で輸出を増やし、日本経済を好景気にしようと計画した。
もちろん1929年10月24日にアメリカのウォール街で起きた株価の大暴落は周知だったが、これが直ちに米国史上最強の好景気と言われた1929年までのアメリカの経済に影響することはなく、引き続き世界経済は復興しつつあるとの多くの人の認識からだった。

「金本位制」への復帰に、現状での実勢を表す「新平価」ではなく、日本が金本位制になった1897年の貨幣法で定められた固定為替相場、いわゆる「旧平価」での復帰とした。
この「旧平価」での復帰は、円の価値を実勢より切り上げた形になっていた。
これにより、円高になり、輸出には不利だが、輸入は増えて、結果外国への支払いが増え、金(正金)が外国に流失する。更には金の裏付けが減るため、発行する貨幣量が減りデフレーション状態になる。
デフレ下では不況になり、高コスト、高賃金のままで生き延びていた企業が潰れるので、産業界が健全化し、引いては日本の国際競争力が強化されるというシナリオだったらしい。

しかし目論見とは異なり、世界恐慌の波が、門戸を開いたばかりの日本に襲い掛かってきた。もともと井上蔵相の「緊縮財政」で不況下にあったところ、世界恐慌によって輸出が激減して「昭和恐慌」が起きた。
1930年夏ごろには、資本の海外逃避、通貨供給の収縮、物価の下落、国際収支の急激な悪化が起こっていた。
国民所得(GNI)は1924年(昭和4年)を「100」とすると、1931年(昭和6年)は「77」、輸出額は「100」が「53」、輸入額も「60」に下がった。輸出の主力産品であった生糸価格は「45」まで下がり、綿糸価格も「56」になった。
日本の主な輸出先は、生糸はアメリカ、綿製品や雑貨は中国などアジア諸国だったが。これらの国は恐慌のダメージの大きい国だった。

特に疲弊が大きかったのは、生糸の対米輸出が激減した農村だった。デフレ政策と、1930年(昭和5年)の米の豊作によって、米価が下落。農村は深刻な被害を被っていた。