<3日目ー4>
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ
ラホール二日目。TDCPの、ラホールの市内Tour「Afternoon City Tour」に参加して、市内を巡っている。
<ラホールとスイック教徒>
ラホールという町は、ヒンドゥーが多数派のインドにとっても、ムサルマーンの国パキスタンにとっても歴史的に重要な町だが、もうひとつの宗教「スイック教(Sikhism)」やその信徒「スイック(Sikh)」にとっても重要な町だったようだ。
スイック教はキリスト教やイスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで、世界で5番目に信者の多い宗教と言われているが、信徒数は印パ分離前のパンジャブ州とその周辺に偏在していた。
私たち日本人がスイック教やスイック教徒と言って思い出すのは、頭にターバンを巻いたインドの人たちだ。
子供の頃は、インド人の男性はみんなターバンを巻いているものだと思っていたが、同じインドの人でも、ターバンを巻いているのは主にスイック教徒だ。その中でも昔は軍事組織だった「カールサーKhalsa」に属する人たちだった。
それに昔のプロレスに「タイガー・ジェット・シン」という、リングの上にサーベルを持って出てくる危ないプロレスラーがいたが、「シン Singh」という名前も、「獅子」という意味で、スイック教徒の名前だ。
彼の国籍はカナダらしいが、カナダには今も沢山のスイック教徒がいる。
スイック教の開祖は、15世紀にラホール近郊の村で、ヒンドゥー教徒の家に生まれたグル・ナーナク(Guru Nanak)(1469年4/15~1539年9/22)だ。
「スイック」とは「弟子」のことで、スイック教徒はこのグル(尊師)・ナーナクの「弟子」であることを意味しているらしい。
彼はヒンドゥー教やイスラム教の形骸化を嫌い、形式や儀式、慣行、苦行、カースト、さらにはイスラム教のジハードも説かず、「聖典に帰れ」と主張した。
何か16世紀に起きたキリスト教の「宗教改革」に似ている。
さらにスイックは、「イク・オンアカール(ik onakar)」(神はひとつである)を唱えて、常に神の本質、および存在(ナーム)を思い起こし、家庭生活や世俗の職業に就いて、それに真摯に励むことを重要視した。
まるでプロテスタントの教えの様だ。
その後、肥沃な穀倉地帯であったパンジャブ地方で多数の信者を得た、スイック教の第4代グルのラーム・ダースが、ラホールから東へ50Kmの距離にあるアムリトサル(Amritsar)に、スイック教の大本山として黄金寺院「ハリマンディル・サーヒブ(Harmandir Sahib)」という寺院「グルドワーラー(Gurdwara)」を作った。
当時のムガール帝国の第3代皇帝アクバル(Akbar)の治世下では、宗教的融和が保たれていたため、国教であるイスラム教とスイック教は協調できていた。
しかし第5代グルのアルジュン(Arjun)は、ムガール帝国第4代皇帝シャハンギール(Jahangir)と対立したため、スイック教の宗教団体は政治結社化し、さらに先鋭化して自衛の軍隊組織を持つまでになる。
1675年、第9代グルのテーグ・バハードゥルは、インド全域にスイック教を布教しようとして、異教徒を抑圧しようとするムガール帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(Aurangzeb)に処刑されてしまう。
第10代グル・ゴービンド・シング(Guru Gobind Singh)は、息子たちがムガール帝国に殺され子孫が絶えたことから、遺言で、経典(グラント・サーヒブ)自体をグルとする様に言い残した。
以後、スイック教に生きている人間のグル(尊師)はおらず、1430ページの経典そのものを「グル・グラント・サーヒブ(Guru Granth Sahib)」(尊師・書物・様)としている。
<インド最後の独立国「スイック王国」>
1798年11月、アフガン勢力がパンジャブに侵入して、ラホールを占領し、アムリトサルまで迫って来た。
この時、スイックの軍隊組織の一派であるランジート・シング(Ranjit Singh)が、1799年7月にアフガン勢力からラホールを奪還。
1801年4月にはラホールで王位に就き、スイック王国(Sikh Empire)を創始する。1802年には聖地アムリトサルも奪還する。
この後スイック王国は、ムガール帝国と対立しつつ版図を広げて行く。1809年の北部のジャンムーから中部のムルタン、カシミール、ラワルピンディ、1834年にはアフガンのペシャワールまでを獲得した。この版図は主にパンジャブ地方を中心に、北西辺境州からカシミール辺りとなる。
これらの領土にはもともとイスラム教のムサルマーンが多く、スイック王国の宗教人口の割合では、ムサルマーン70%、スイック17%、ヒンドゥー13%だったと言われている。
ランジート・シングの晩年、スイック王国はインドで唯一の独立国だった。
彼の死後、後継の問題で混乱し、軍事組織のカールサー(Khalsa)が実権を握る。しかし此処にイギリス東インド会社(EIC)が介入し、1845年12月、第一次スイック戦争(First Anglo-Sikh War)が始まる。
1846年3月8日、敗れたスイック王国はEICと「ラホール条約」を結び、ラホールや王国内各地にEICの駐在官や駐屯地を置くことを認め、さらに領土のカシミールを割譲させられる。
この時、この戦争でイギリスのEICに協力したジャンムーの領主グラーグ・シングは、500万ルピーの支払いの見返りに、ジャンムー・カシミール地方を割譲され、ヒンドゥーの藩王国「Princely State of Jammu and Kashmir」を建国する。
これが後に、1947年の印パ分離独立の際の火種になり、その後も続くカシミール領土問題の場所になる。
しかし1948年5月には第二次スイック戦争が起こり、1849年3月26日、スイック王国はイギリス東インド会社((EIC)の前に降伏して、イギリスのインド植民地に併合されてしまった。