歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インド・パキスタンひとり旅(2000年) <8> まだまだ3日目 ラホールは、インドとパキスタンの歴史を変えた町

<3日目ー3
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ
ラホール2日目。TDCPの、ラホールの市内Tour「Afternoon City Tour」に参加して、市内を巡っている。

<英領インドの民族運動>
ムガール帝国の次に広大なインド亜大陸を占領、統治したのは、イギリス東インド会社(EIC : East India Company)だった。
このイギリスの勅許会社は、自前の軍隊によってムガール帝国の領土や従来から続く藩王国の領土を侵食して拡大し、一部の藩王国を残してほぼインド亜大陸を占領する。

しかし1858年、EICのインド人傭兵シパーヒー(Sepoy)の反乱が全土に拡大した「インド大反乱」(Indian Rebellion)を期に、イギリスはEICを解散し、イギリス本国が直接統治を始めることした。
そして1858年以降は「英領インド帝国(British Raj)」として、名目上は独立国だが、実質はイギリスの植民地となる。
因みにカナダやオーストラリアはイギリス帝国(British Empire)内の自治領(Dominion)だったが、インドは名目上は独立国で、独自の軍隊(英印軍 British Indian Army)も持っていたが、実質上は植民地のままだった。

イギリスによるインド支配は、経済的な価値ばかりでなく、植民地財政によって維持されている巨大な軍事力をイギリス帝国全域に提供し、帝国全体の安全保障や軍事政策を支える重要な存在だった。
この英印軍は志願兵で約250万人もいた。第一次、第二次の大戦では、連合国軍の一員としてアジアのみならず、ヨーロッパや中東、アフリカでも戦っている。

1877年には、イギリス国王のヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任する「同君連合」となり、植民地政府のトップはイギリス本国から派遣されたインド副王兼インド総督だった。

1885年、植民地下でインドの知識人の不満を吸収し、インド人の政治参加を漸次拡大するため、いわばガス抜きの様な意味合いで、当時のインド総督の承認のもと「インド国民会議 INC(Indian National Congress)」が結成・開催される。

1905年、イギリスはベンガル地方を、ヒンドゥー教徒の多い西ベンガルとムサルマーンMusalman(インド・パキスタンに於ける「ムスリムMuslim」イスラム教徒の呼称)の多い東ベンガル(現在のバングラディシュ)に分ける「ベンガル分割令(Bengal Partition)」を出す。
当時の民族(反英)運動の中心地であったベンガルの、東ベンガルにムサルマーンの自治州を作ることで民族運動の分断を図ろうとしたのだ。
これに反発したインド国民会議は、1906年のカルカッタ大会で、英貨排斥、スワデーシー(Swadeshi 国産品愛用)、スワラージ(Swaraj自治・独立)、民族教育の「カルカッタ4綱領」を採択するなど反英姿勢を急進化させた。

一方、圧倒的にヒンドゥー教徒の多いインドでは常に少数派だったムサルマーンは、この「ベンガル分割令」によって出来る東ベンガルでは多数派になれるため、一気に親英に傾いた。
それを見てイギリスは、反英運動を宗教運動に転嫁させて民族運動の力を削ごうと、1906年親英の組織、全インド・ムスリム連盟(All-India Muslim League)が設立された。
しかし、1911年インド国民会議の激しい反対で「ベンガル分割令」は撤回されてしまうと、今度はこれを知ったムスリム連盟は激怒した。

<プルナ・スワラージ(Purna Swaraj完全な独立)宣言>
1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発する。
イギリスはインドに対し、英印軍の兵員を欧州戦線に送るなど戦争協力を依頼し、見返りに将来の独立を約束する。
この結果140万人以上のインド人兵士が動員され、138万人がヨーロッパやメソポタミア戦線など海外に派兵された。この動員数は、カナダの62万人、オーストラリア41万人より圧倒的に多く、本国以外の自治領(ドミニオン)に比べても最大だった。

しかし親英だった全インド・ムスリム連盟は、大戦中にイギリスがイスラム教国家のオスマン帝国と開戦したことで、イギリスへの忠誠心は削がれ、次第に自治政府の樹立を求めるようになって行った。

1919年、戦争に勝利したイギリスは、戦前に行っていた「インド独立」の約束に対し、一転して植民地政府の一部改革のみを盛り込んだ「インド統治法」(1919年)と、「ローラット法(Rowlatt Act.)」で報いることになる。

「インド統治法」では立法府に上下二院制の議会を設けることとしたが、インド総督による政府(行政参事会)は立法府に責任を負わないという体制であり、しかも施行されたのは1921年になってからだった。
一方、即時施行された「ローラット法」は、植民地政府のインド政庁が制定した治安法令で、破壊活動の容疑者に対し令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、陪審員によらない裁判を認めたものだった。

1919年4月13日、パンジャブ州のアムリトサルで、スワデーシー(Swadeshi 国産品愛用)の推進とローラット法に抗議する集会に参加した12,000名余りの人々に、グルカ兵(Gurkha ネパールの山岳民族)やムサルマーンからなるインド軍部隊が、無差別に射撃して数百人を殺戮する「アムリトサルの虐殺」(Amritsar Massacre)が起きた。

再び燃え上がった反英、反植民地の民族解放運動の高まりの中、1929年12月ラホールでジャワハルラル・ネルー(Jawaharlal Nehru)を議長とした国民会議(INC)の第44回大会が開かれ、インドのイギリスからの完全な独立を目指す「プルナ・スワラージ(Purna Swaraj完全な独立)」を宣言し、1月26日を「独立の日」と定めて、自由インドの旗を掲げると決議した。
この「独立の日」が、現在のインド共和国の法定休日「共和国の日」(Republic Day)となっている。

<ラホール決議(Lahore Resolution)>
しかし英領インド内のムサルマーンの立場は微妙だった。
インド亜大陸に於いて圧倒的多数派のヒンドゥー教徒に対し、少数派のムサルマーンは常に社会的な圧迫を受けていたのだ。
イギリスの頸木からは逃れたいが、イギリスという重しが無くなったあとのヒンドゥー教徒からの圧迫をどのように排除するのか。

1930年初頭になると、この問いに一つの回答が示される。
1930年12月、全インド・ムスリム連盟(All-India Muslim League)の第21会大会がラホールで開催された。
ムハンマド・イクバール(Muhammad Iqbal)は議長演説で、ムサルマーンの人口が多いパンジャブ、西北辺境州、スィンド、バローチスタンが合同して、単一の国(State)になることを望む。英帝国内の自治領であろうと、英国から離脱しようと、と述べ、統合された北西インド=ムスリム国家(North-West India Muslim State)の構想を明らかにした。

また1933年、まだケンブリッジの修士学生だったチョウドリ―・ラフマト・アリ―(Choudhry Rahmat Ali)が発表した「パキスタン宣言(Pakistan Declaration)」は、その中でムサルマーンが住民の多数派を占める北西部の州を、パンジャブ州(Panjab)の「P」、北西辺境州(アフガンAfghan)の「A」、カシミール(Kashmir)の「K」、スィンド州(Sindh)の「S」などそれぞれの頭文字と、バローチスタン州(Balochistan)のみは語尾の「TAN」をとって、「パキスタン(PAKSTAN)」と呼称した。
この語が後に、パキスタンの国語であるウルドゥー語やペルシャ語で「清浄な(パーク)場所(スタン)」の意味を与えられ、「PAKSTAN」に「I」を加えて、現在の国名「PAKISTAN」となったらしい。
但し、この中には東ベンガル(現バングラディシュ)は含まれていなかった。

1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発する。ここでも大量の英印軍(British Indian Army)が、連合国軍として戦争に動員されている。

大戦中の1940年3月23日の全インド・ムスリム連盟第27回ラホール大会で、ムハンマド・アリ・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)は議長演説で、ムサルマーンとヒンドゥー(ヒンドゥー教徒)は別個の民族であるという「二民族論(Two-Nation Theory)」を述べ、ムサルマーンの人口が多数を占める地域が、ヒンドゥー人口多数地域とは別に独立することを目指す「ラホール決議(Lahore Resolution)」が採択された。
この決議が行われた3月23日は、現在「パキスタンの日 Pakistan Day」としてパキスタンの法定休日となっている。

「ラホール決議」に署名するジンナー(Wikipediaより)