歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

マレーシアひとり旅(2024年) <24> 9日目 マラッカの旧市街と「独立宣言記念館」

<9日目ー1
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。

<マラッカにはランドリーがよく似合う>
昨晩、トラディショナルな風邪薬を飲んだきり、朝の4:00過ぎまで一睡もできなかった。
もう一度薬を飲んで、今日は一日中ベッドで寝ていようかとも考えたが、一晩にたくさんの汗をかいたので、着替えが無い。洗濯をしないと、そう思って起き出した。

9:00過ぎ、洗濯物を確認しながら、部屋に置かれたランドリー依頼書にチェックをする。ホテルに最初に着いた日に、書かずに洗濯物をレセプションに持込んで、受け付けて貰えなかった、あの依頼書だ。
汗をかいて濡れた沢山の洗濯物をプラスチックの袋に押し込んで、依頼書と一緒にホテルのレセプションに持って行ってランドリーを頼む。するとレセプションの女性は、出来上がりは明日になるという。

それは困る!!
洗った洗濯物は、今晩使いたい。今晩汗をかくのだ。
しかも、明日はもうマラッカを離れる日だ。
東南アジアや南アジアで、朝ランドリーに洗濯物を出せば、ほぼ100%当日中に出来てくる。それが当たり前だと思っていたので、当惑した。
唯一明日になると言われたのは、雨季のミャンマーで、それも一度だけだった。

「Then no,Thank you.」と言ってから、洗濯物の袋を持ち上げて「I'll do it !」と言って、外に出た。一昨日いったコインランドリー「DOBI」に行くつもりだ。

平日の朝、コインランドリーはいつものように無人だ。
と思ったら、上半身裸のインド人の親父さんがいた。屈んでウォッシャー機から洗濯物を取り出していたので、気づかなかった。
今日は腹の出たインド人の親父さんと一緒だ。一昨日は台湾からの旅行者と一緒だった。
「Good Morning.」と声を掛けると、片手をちょっと挙げて応えた。

RM1紙幣を1枚ずつCoin Changerに入れ、RM1相当の専用コインのトークン(token)に変え、洗濯物をウォッシャーWasher に投入。トークンを5枚入れる。これで26分間の洗濯だ。
その後、乾燥機Dryerに移し、またRM5のトークン25分間。川から吹いてくるマラッカの風に吹かれて、ベンチに座って待つ。
此処はフランシスコ•ザビエル教会の裏手に当たる。すぐ前は、小さいながらマスジット(モスク)だ。そこに出入りする人を、漠然と目で追っている。
風邪が治らず、汗が酷い。ベンチに座っているだけで、シャツがびしょ濡れだ。

またコインランドリーのお世話になる



<中華街の旧い家々>
ランドリーを終えて、一旦ホテルに戻る。
このままベッドで休むか、少し逡巡したが、着替えて外に出ることにした。
どのみち、食事をするには外に出なければならない。

金聲橋でマラッカ川を渡ると、ジョンカー・ストリートから一歩入って、脇道からわき道へと当て所もなくなく歩き回る。
表通りとは違って、人気のない古びて痛んだ壁や造作のコロニアル風な建物を曲がると、今度はカンポン・クリン・マスジットMasjid Kampung Klingのパゴダ風のミナレットが建っていたりする。
その横には、ミューラル(壁絵)が描かれた家屋だ。
体調の悪いのを良いことに、何もしない、何も見ないつもりで、裏通りから裏通りへ人気のない街路をうろうろする。

中華街裏通りの旧い長屋

コロニアル風のショップハウス

カンポン・クリン・マスジットMasjid Kampung Kling

ミューラル(壁絵)が描かれた家屋は、街の至る所で見られる

11:30、ジョンカー・ストリートに戻ってきた。
ドリアンを並べた屋台の脇を入った通りにある「Jon Ker88」と言う店で、カレー•チキンライスを注文する。
店の趣向なのか、此処のテーブルには、昔の足踏み式ミシンの台を使っている。これを面白がって話題になることもあるのだろうが、何の興も湧かない。
食事も、舌がおかしいのか、美味しくも不味くもない。

ドリアン売りの屋台

カレー風味のチキンスープ

足踏み式ミシンの台がテーブル代わり



<マラッカの「独立宣言記念館>
12:30ごろ、オランダ広場を抜け、マラッカ川沿いのJL.Merdeka(ジャラン・ムルデカ 独立通り)を曲がって、今まで前を通るだけで、上がって行ったことがなかったセントポール教会跡(St.Paui's Church)のある丘を周っているJl.Kota(ジャラン・コタ 町通り)を上って行く。
このフランシスコ・ザビエル像のある1521年に建てられたセント・ポール教会や、1511年ポルトガル人によって築かれたサンチャゴ砦(Porta de Santiago)などの建つ歴史地区は、マラッカを訪れた観光客が最初に行く場所らしいが、私はまだ足を踏み入れたことがなかった。

緩やかなカーブを上っていくと、正面に白と茶に塗られた洋館が見えてきた。
これがマラッカの「独立宣言記念館 Memorial Pengisytharan Kemerdekaan」」だ。1956年、マレーシアの初代首相アブドゥル・ラーマンが、翌年に実施されるマラヤ連邦(現マレーシア)の独立を最初に宣言したのは、実は此処マラッカだったのだ。
1511年のポルトガルによる侵略・占領から、オランダ、イギリス、日本、イギリスと、植民地支配下に置かれたマラヤが初めて独立し、それを全世界に最初に宣言した場所だったのだ。
でも何故、首都となるクアラルンプールや、その他の場所ではなく、マラッカだったんだろう。

この建物はイギリス植民地時代の1912年、マラッカ在住のイギリス人将校の社交の場として建てられたクラブハウスだったらしい。
コロニアル調のイギリス風洋館だが、屋根にはモクスで良く見られる金色のネギ坊主のクーポラが付いている。

階段を上がって中にはいると、左手の受付の男性が低い声で何か云う。手元には広げられたノートが置かれている。どうも入館するなら記帳してくださいと言っているらしい。
前の人の記載に倣って、記名する。ここの入場は無料だ。
中は、現物の展示品自体は多くないが、マラヤの独立に到る歴史についての、多くの写真や、英語とマレー語(Bahasa Melaya)で書かれた説明文のパネルが並んでいる。

独立宣言記念館


<マレーシアの歴史・マラッカの歴史>

マレーシア(Malaysia)の歴史は、ここマラッカから始まったらしい。

国名の由来は「ムラユMelayuの国」らしいが、「ムラユ」とは山脈のある土地の意味らしい。
このインドシナ半島から延びる「山脈のある」細長いマレー半島には、13世紀にはアラブ人商人、インド人商人と共に、イスラム教が伝来し、従来のヒンドゥー教や仏教が駆逐されていった。

1365年、現在のインドネシアのスマトラ島にあったシュリヴィジャヤ王国(Srivijaya)がジャワ島にあったヒンドゥー教徒の王国マジャパヒト王国(Majapahit)の侵略をうけたため、シュリヴィジャヤ王国のパラメスワラ王子(Parameswara)がマレー半島に逃れ、1402年この地に建国したのがイスラム王国であるマラッカ王国(Malacca Sultanate)だった。

しかし1498年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマVasco da Gamaによるインド航路の発見により、飛躍的に伸びた香料貿易を独占的に進めていたポルトガルが、貿易の拠点として、1511年にマラッカを侵略し占領する。

1542年、マラッカから出発した貿易船が、日本に鉄砲をもたらしたのも、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に上陸してキリスト教を伝えたのもこの頃だ。

その後、1641年、香料貿易に乗り出した新興国のオランダの「東インド会社(VOC : Verenigde Oost-Indische Compagnie)」が、ポルトガル人を駆逐してマラッカを占領する。
1777年、マレー半島北部ではマレー人王国のパタニ王国やケダ・スルタン国が北方のシャム(Siam 1939年からは現在の国名タイThai)より侵略をうけたため、当時インドのベンガル地方を占有していたイギリス東インド会社(EIC : East India Company)に軍事援助を求めた。この見返りにEICはペナン島の貸与を得た。

1791年シャム王国がマレーの北部王国まで攻めて来たが、EICは兵を出さず、逆にペナン島の割譲を認めさせ、マレー半島で最初のイギリスの植民地となる。ここに中国やインドからの移民政策を行った。

1795年には、ヨーロッパのオランダ本国が、1789年のフランス革命によって生まれたフランス革命軍により占領されてしまったため、オランダに代わってイギリス(EIC)がマラッカを占領することになった。

1805年に、イギリスの植民地行政官としてトーマス・ラッフルズ(Sir Thomas Raffles)がペナンに派遣され、18219年にはマレー半島の最先端の島シンガポールが、シンガポール王国の内紛に乗じてEICに占領された。

1821年、マレーの北部王国まで攻めて来たシャム王国に対し、EICが約束の兵を出さなかったばかりか、ペナン島迄割譲させられたケダ・スルタン国(Kedah Sultanate)は、シャムに征服されてしまった。

スルタンの肖像