歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インド・パキスタンひとり旅(2000年) <10> まだまだ3日目 1947年英領インドからの独立前夜

<3日目ー5
2000年 3月11日 土曜日 ラホール(LAHOR) 晴れ
ラホール二日目。TDCPの、ラホールの市内Tour「Afternoon City Tour」に参加して、市内を巡っている。

<イギリス領インド帝国からの独立>
第二次大戦中の1942年8月、インド国民会議はイギリス勢力のインド撤退を要求。この反英運動にムスリム連盟は不参加とし、ムスリム国家設立の実現を主張する。

大戦末期の1945年6月、英領インド帝国総督のヴェ―ヴェル伯爵は、インド北部にある夏の首都シムラ―(Shimla)に、国民会議派(INC)のガンディー(モーハダス・カラムチャンド・ガンディー Mohandas Karamchand Gandhi)、ムスリム連盟のジンナー、その他の各派のリーダーを集めて「シムラ―会談」を行った。
ガンディーは、イギリス撤退後にインド分割問題を処理するべきとの主張に対し、ジンナーはイギリス撤退前にインド分割を取り決めるべきとの意見で、具体的に帰属する国家を決める住民投票などの取り決めが纏まらず決裂した。
以後、国民会議派はムスリム連盟との交渉を拒否する。

1945年9月2日、第二次世界大戦終戦。
2度の大戦を経たイギリス帝国は、経済力、軍事力とも疲弊し、既に植民地統治の能力を失っていた。特にインドでの広範な反英運動は、植民地支配の要であったインド人官僚や軍隊の離反を招いていた。
1946年2月にはボンベイ(Bombay)で、2万名に及ぶインド海軍水兵の反乱がおきていた。
こうした中、1945年から46年に掛けての冬に、インドで総選挙が行われた。
この選挙はヒンドゥー教徒とムサルマーンの留保議席を争う分割選挙だったが、国民会議派は非ムスリム議席の90%を確保し、ムスリム連盟も中央議会のムスリム議席を独占した。
この結果は、両者の対立が鮮明化したことを表していた。

1946年3月、イギリスは新たな案を提示した。それはヒンドゥー教徒の多数地域「ヒンドスタン Hindustan」とムサルマーンが多数を占める地域「パキスタンPakistan」、それに旧藩王国(土侯国)の三者による連邦国家「インド連邦」だった。
ジンナーは賛意を示したが、あくまで中央集権的な統一インドを目指す国民会議派は拒否した。

これを受け、ムスリム連盟は1946年4月のデリー大会で、パキスタン建国を決議した。
その席上、ベンガルの代表者は「ラホール決議」の趣旨から、東ベンガルに独自のムスリム国家建設を要求した。これは1940年の「ラホール決議」では、ムスリム国家の建設を決議したが、それが単一の国か、複数の国かは明確にされていなかったためだった。
しかしこれは採択されなかった。
これがインド・パキスタン分離独立後の、パキスタン内での東パキスタン(後のバングラディシュ)問題の火種になった。

独立への具体的な取組がなかなか進展しないため、ムスリム連盟のジンナーは、1946年8月16日を「直接行動の日」(Direct Action Day)として民衆に行動を促した。
しかし結果は、「非暴力」での行動という彼の意図とは裏腹に、凄惨な暴動が起こった。
ベンガルのカルカッタ(Calcutta)市内で4000人以上のヒンドゥー教徒が虐殺され、西隣のビハール州(Bihar)では7000人のムサルマーンが殺された。

1946年末、国民会議派主導で、独自の憲法を持つ独立国家建設までの橋渡しとして、中間政府の設立が宣言された。
パンジャブ州の西部、東ベンガル州、バローチスタン州、スィンド州、北西辺境州など、ムサルマーンが多数を占める6州は、単一の主権独立国家「パキスタン」として独立する。
またイギリスの直轄州以外の、大小552在った藩王国の殆どは、インドに帰属することとなった。

1947年6月、第二次大戦中は東南アジア連合国軍最高司令官で、2月21日に新たにインド副王兼インド総督となったルイス・マウントバッテン卿は、赴任にあたってイギリス本国から「インドの統一を保って撤退せよ」との命を帯びていた。
しかし現地での事態はさらに進んでいて、6月3日ついにインドとパキスタンの分離独立を含む「マウントバッテン・プラン」(Mounbatten Plan)を発表する。

インド分割を話し合うマウントバッテンとネルー、ジンナー(Wikipediaより)