歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <15> 「援蒋ルート」とビルマ独立義勇軍(BIA)

<4日目―8

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。

モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。

<援蒋ルート>
そもそも1941年(昭和16年)12月の対英米蘭戦争開戦時に於ける日本軍の進攻作戦を定めた「南方作戦」にも、具体的な作戦が示されていない日本軍のビルマ進攻は、何を目的としていたのだろう。
どうも直接的には「援蒋ルート」遮断のためだったらしい。

当時日本と中国は、1937年に勃発した「支那事変」(日本側の呼称、実質的には日中戦争)の真っ只中にあった。
日本軍は中国の沿岸部を占領したが、国民党の蒋介石政府は首都を内陸の重慶に後退させ、抵抗を続けていた。これに対し、アメリカやイギリスが様々なルートを通して援助を行っていた。日本は蒋介石政府の抵抗を削ぐには、この援助ルート(「援蒋ルート」)の遮断が必要と考えていた。

「援蒋ルート」はいくつかあった。
1.「香港ルート」。援助物資を英領香港で陸揚げし、鉄道や珠江の水運で内陸部に運ぶルートだ。しかしこれは、1938年(昭和13年)10月、広州が日本軍に占領され、事実上遮断されていた。

2,「ソ連ルート」。1941年(昭和16年)独ソ戦が始まって、ソ連は中国を支援する余力がなくなってしまったのと、同年4月13日「日ソ中立条約」を結んだ日本を刺激することを恐れてソ連側が中断していた。

3.「仏印ルート」。当初最も大きかったのがこのルートだったらしい。仏領ベトナム(仏印)のハイフォン港で陸揚げして、1910年に開通した「ベトナム・雲南鉄道」で中国の昆明まで鉄道で結ぶルート。

4.「ビルマルート」。英領ビルマのラングーン(現ヤンゴン)港に荷揚げし、鉄道でマンダレー(Mandalay)、ラシオ(Lashio)まで運び、その後トラックで怒江(ビルマではサルウィン河)に架かる吊り橋「恵通橋」を越えて昆明に到る「ルート」だった。

「援蒋ルート」(靖国神社遊就館図録より)

このうち「仏印ルート」については、1940年6月22日にフランスがドイツに降伏し、その占領下にあり、仏領ベトナム(仏印)の植民地政府もドイツの傀儡であるヴィシー政府の管下にあった。そのため日本軍は1941年9月23日、第22軍の1師団によって北部仏印(ハノイ)に進駐して「仏印ルート」を遮断していた。

残るは「ビルマルート」の遮断だった。
ビルマルートも、1940年(昭和15年)6月24日に、日本政府からイギリスに「ビルマルート」及び香港経由による援蒋行為の停止を要求し、7月18日にはイギリスはビルマルートの閉鎖を行っていた。しかし9月23日の日本軍の北部仏印進駐後、12月18日再びビルマルートによる援助を再開していた。

<ビルマ独立運動と「三十人の志士」>
ビルマの独立運動は、1930年代に活発になった。
1930年(昭和10年)5月には、反英組織「われらビルマ人(ド・バマー)協会」(タキン党 Thakin Party)が結成されている。

タキン党に参加していたのは、ラングーン大学の学生運動のリーダーだったアウン・サン(Aung San)や後に独立後の初代首相となるウー・ヌー(U Nu)達で、アウン・サンは党の書記長になっていた。

因みに「ウー・ヌー」など、ビルマ人(ミャンマー人)の名前だが、一般的に「姓」は持たない様だ。
旅券等の発行や外国への移住時に、姓の記入を求められる場合、このウー・ヌー(U Nu)の様に、男性敬称としての「ウー(ウ)」や、女性敬称として「ドオ(ド)」が用いられるらしい。
ミャンマー語では、「U」は、英語の「Mr.」の様なものだと。
私たちの年代だと、1961年から1971年まで国連の第3代事務総長だった「ウ・タント」(U Thant)がすぐに思い出されるが、この「ウ」も姓ではない。

1939年(昭和14年)9月に欧州で第二次大戦が勃発すると、タキン党はバー・モウ(Ba Maw)の「シンエタ党(貧困党)」と共に、自由ブロックを結成する。民族主義者の中には自治領の議会を通じて穏健な運動を目指す人たちもいたが、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げていた。

1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対し弾圧を加え、バー・モウら首脳陣が相次いで逮捕、投獄されてしまう。アウン・サンらは中国の厦門に密出国する。これは中国共産党と連絡を取るためだったとも言われている。
実はアウン・サンは、1939年8月15日に6人のメンバーで結成した、ビルマ最古の政党であるビルマ共産党(CPB  Communist Party of Burma)の創立メンバーで総書記だった。

当時日本の大本営(戦時下で設置される日本軍の最高統帥機関)では、援蒋ルートの「ビルマルート」の遮断方法を模索していたが、陸軍の鈴木敬司大佐の案で、ビルマでタキン党を中心にした独立運動が武装蜂起に発展することで、ビルマルートの遮断も可能と判断していた。
鈴木大佐が機関長の「南機関」が発足し、当時日本軍が占領していた厦門からアウン・サン達を日本に連れてくる。

その後、南機関の支援で、アウン・サンら30人のタキン党員(後に「三十人の志士」と呼ばれた)を密かにビルマから出国させ、海南島で軍事訓練を行っていた。

<ビルマ独立義勇軍 BIA (Burma Independence Army)の創設>
日本軍はビルマ進攻に合わせ、ビルマ人の独立運動家アウン・サンら「三十人の志士」を中心に結成されたBIAを伴って行くことを考えていた。
1941年(昭和16年)12月8日以降、南機関とアウン・サンら「三十人の志士」たちは、タイのバンコクに拠点を移す。

12月18日「三十人の志士」たちを中心に、タイ在住のビルマ人約200名で「ビルマ独立義勇軍 BIA (Burma Independence Army)」を結成する。
ここには南機関員や義勇兵など日本人74名も参加。日本軍から支給された小火器で武装していた。司令官は南機関長の鈴木敬司大佐(ビルマ名:ボー・モージョー大将)、アウン・サン(大佐)は参謀だった。