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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <9> まだ4日目 タンビュッザヤで泰緬鉄道の跡を訪ねる

<4日目―2>

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。
タクシーの助手席に乗って、ミャンマー南部の街を訪れようとしている。

<タンビュッザヤ>
モウラミャインから60km位南下すると、街中で何回か鉄道の踏切を渡るようになる。
タンビュッザヤ(Thanbyuzayat)の町に着いた。
ここはモン州の町で、むかし錫鉱石の一大採掘場だったところ。「タンビュッ」は錫、「ザヤ」は宿の意味らしい。

ここから更に南下すると、アンダマン海に臨む港町ダウェイ(dawei タニンダーリ地方域)やマレー半島のミャンマー最南端の街コータウン(kawthaung)に通じている。
そしてここタンビュッザヤは、第二次大戦中、タイからミャンマーへの鉄道、いわゆる「泰緬鉄道」建設のビルマ側の起点となった街だ。

ドライバーが最初に車を止めたのが、泰緬鉄道建設などで亡くなった連合国軍捕虜の墓地「WAR CEMETARY」だ。
入口の石碑には、「THEIR NAME LIVETH FOR EVERMORE」(彼らの名は、永遠に生き続ける)と描かれている。
よく手入れされた広い芝生の墓地に、名前や階級を刻んだ墓標が続く。白い花を付けたプルメリアの木や黄色の花が、強い日差しの中で咲いている。奥には名前の不明な、単に「an allied soldier(味方の兵士)」とだけ、但し「known unto God(神様は知っている)」と刻まれた墓標も並んでいる。

連合国軍捕虜の墓地「WAR CEMETARY」

名前や階級を刻んだ墓標

現地の人はもとより、イギリス人もこんなにたくさん異国の地で無念の死を遂げて居るんだ。
日本人もミャンマーのこの地で、18万もの人が亡くなっている。
ミャンマーを旅するとき、ミャンマーの文物に触れることは勿論だが、同時に到るところに残されている第二次大戦時の戦争の跡を避けては通れない。

日本軍が鉄道建設で亡くなった人の為に作ったパゴダに行く。ミャンマーの鉄路の側の草地の中に、ひっそりと「泰麺連接鐵道麺側建設殉難者ノ碑」と書かれた碑が立っている。その脇には余り大きく無い金色のパゴダが立っていた。

「泰麺連接鐵道麺側建設殉難者ノ碑」

そこからタンビュッザヤの中心部の近くに、泰麺鐵道の博物館がある。5,000Ks(約400円)でチケットを買って入るが、お寺でも無いのに靴を脱いで入る。ミャンマー式かな。
泰麺鐵道は英語で「Thai-Burma Railway」だが、別名「Death Railway」という様に、展示物も日本軍を加害者として記述されている。そもそもこの博物館の名前が「Death Railway Museum」と言う。
しかし中で、立ったまま当時の建設作業を撮したVTRを見ていた私に、「Where are you from? 何処から来たのですか?」と聞いて来た若い職員が、私が「From Japan」と答えると、わざわざ椅子を持って来て勧めてくれた。

「Death Railway Museum」


<泰緬連接鉄道>
「泰緬鉄道」、正式には「泰緬連接鉄道」(英名は、Thai-Burma Railway)は、1957年のデヴィッド・リーン(David Lean)のイギリス映画「戦場に架ける橋」(The Bridge on The River Kwai)でも描かれた鉄道だ。

当時のミャンマーは、英国の植民地で「英領ビルマ」だった。
第二次大戦が始まっていた1942年(昭和17年)、当時ビルマでは、第33師団、第55師団を主力とする日本陸軍第15軍が隣国タイから進攻し、その後占領したラングーン港から上陸した第18師団、第56師団が加わり、5月4日には「全ビルマ制圧完了」を総軍である南方軍に報告していた。これらの軍に大量の物資を輸送する必要があった。
当時タイとビルマの間にはマラッカ海峡経由の海上輸送しかなかったが、同年6月4日から7日にかけてのミッドウェー海戦での敗北などで、インド洋での海上輸送が次第に危うくなりつつあった。

一方、当時タイとビルマには既に多くの鉄道網が敷設されていて、しかも両国とも同じ1,000mmのメーターケージで敷設されていた。
タイ側はインドシナ半島の標準軌だったメーターケージだったが、ビルマ側は、イギリスが英領インドの鉄道をメーターケージから広軌(1,676mm)に変更する工事を行った際、余剰になった資材をビルマ鉄道に流用した結果だった。
この好条件を受けて、日本軍は海上輸送の危険を避け、ビルマ戦線へ大量の物資の陸上輸送を行うため、タイからビルマ迄鉄道輸送を行うことを計画した。

「泰緬連接鉄道」路線図


<苛酷な工事と多くの犠牲>
実際の作業は、完成までの期間を極力短縮するため、タイとビルマ両方から建設を開始した。
タイ側は1942年7月5日、バーンポーン(Ban Pong)から、ビルマ側は1942年6月28日、タンビュッザヤから建設が開始された。
タイ側の路線はビルマ国境近くまでクウェイ川(Kwai)に沿って線路が敷設されており、クウェイ川橋梁や断崖絶壁に沿わせるように木橋を建設したアルヒル桟道橋など、ビルマ側も多くが密林の中での敷設という難工事で、多くの犠牲者を出しながら1943年10月に、タイ側のニーケ(Nike)で、タイ側、ビルマ側双方の鉄路が出会い、415Kmの鉄道が全通した。この間僅か16か月で完成されている。

アルヒル桟道橋(靖国神社遊就館図録より)

しかし難工事と、劣悪な労働環境、また1943年に入ってインド洋が連合国軍潜水艦によって海上輸送が困難になったこともあり、工事期間の短縮を強いられた結果、さらに多くの犠牲者を出すことになった。

作業に従事したのは、日本軍おおよそ1万人、連合国軍捕虜おおよそ6万人、特に死亡率の高かったアジア人労務者(タイ人数万人、ミャンマー人18万人、マレーシア人8万人、インドネシア人4万人他)約30数万人が動員された。

連合国軍捕虜は、シンガポール戦で5万人以上が捕虜になったが、その中でチャンギ・プリズンに収容された後、日本の輸送船でモールメンに着き、そこから鉄道でタンビュッザヤに送られたイギリス、カナダ、オーストラリア、インドなど英連邦の兵士や、オランダ領東インド(現インドネシア)で捕虜になったオランダ人兵士などが居た。

博物館に展示された絵


因みに「泰緬連接鉄道」の「泰」はタイ王国のこと。中国や日本では「泰国」と呼ばれていた。タイの国名は、もとは「シャム(Siam)」と言ったが、これはポルトガル語で「色黒の」の意味だったらしく、1939年「自由」と言う意味の「タイ」国( Thai Land)に改名している。
一方の「緬」はビルマ(現ミャンマー)のこと。中国や日本では「緬甸」(めんでん)と呼ばれていた。

現在のミャンマー(Myanmar)の国名も、表記にいろいろ意見があるが、もともとはヒンドゥー教の神「ブラフマー(Brahma)の土地」を意味したらしい。
ビルマ語(ミャンマー語)には文語体と口語体があり、昔から文語体では「ミャンマ(Myanmar)」,口語体では「バマー(Bama)」と呼称されてきた。
イギリス統治時代は「バーマ(Burma)」、第2次大戦の日本軍政下で生まれたバー・モウ政権での国名は、「タキン党」の解釈で「Bama」となっている。
日本では「ビルマ」と言うが、これは江戸時代にオランダ語で「Birma」と呼ばれていたのがそのまま定着したためらしい。

泰緬鉄道博物館(Death Railway Museum)の庭には、当時日本軍が日本から持って来たC56型の蒸気機関車が展示されている。
これは日本の「C56 56」が、ビルマ国鉄の「C0522」となった車体だ。
現地に合わせ除煙板を撤去したり、テンダー式ながらバックで運転がし易い様、後方視界を確保するため、炭水車の炭庫側面を大きく抉った外観や、車輪のタイヤを特殊形状のものと嵌め変え、軌間をタイやビルマ(現ミャンマー)のメーターゲージに変更した仕様だ。
確か同じ型の蒸気機関車が、靖国神社の遊就館に展示されているのを思い出した。そちらの方は、戦後タイから戻ってきた「C56 31」(タイ国鉄では「725」)で、泰緬連接鉄道の開通式で使われた車体だ。

泰緬鉄道で使われた蒸気機関車


<ムドンで私も祈った>
タンビュッザヤからモウラミャインに戻る途中に、ムドン(Mudon)の街がある。此処は竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の舞台ともなった、日本軍捕虜の収容所があった場所だ。もちろん今は跡形もないが、ドライバーに無理を言って寄って貰った。

町中の小さなKangyi Pagodaにお参りする。
裸足になって、炎天下で熱くなった敷石の境内を歩いていくと、屋根の下の仏像の前で、横座りで熱心に拝んでいる婦人がいる。会釈すると脇を退いて、私のために場所を空けてくれた。私も遥かミャンマーのムドンの地迄来ました、どうかすべての人をお護り下さいと祈る。
いままで此処ミャンマーの地で起きて来た余りに惨い歴史を思うと、御仏に縋るよりない気がする。

ムドンのパヤー傍の露店

ムドンで祈る