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海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <13> しばらくまだ4日目 南方作戦「あ号作戦」

<4日目―6>

2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。

(注)以下の記述は、防衛庁防衛研修所 戦史室著の「戦史業書」(朝雲新聞社)のビルマ関係の資料を参考にしていますが、解釈や記述内容で誤認等あれば、全て筆者不足であり、他意はありません。

モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。

<南方作戦「あ号作戦」>
アメリカの対日制裁に対し、1941年(昭和16年)10月18日に成立した東条内閣は、対英米蘭開戦も辞さずとして、10月29日までに陸海軍中央統帥部で「南方作戦」の作戦計画の作成を完了していた。

呼称は、「あ号作戦」(陸海軍中央統帥部の呼称)。海軍は「第一段作戦」と呼称。対英米蘭戦(日本側の呼称「大東亜戦争」)開戦時に於ける、日本軍の進攻作戦だ。

作戦の目的は、国力造成上の観点から、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、マレーなどの重要資源地帯を攻略確保して、米英に依存することなく、自立できる経済圏の確立を目指すというものだった。

攻撃目標は、フィリピン、マレー、ジャワで、資源地帯の蘭印の中心ジャワを最終目標とした。マレーとフィリピンを同時攻撃して倒したあと、ジャワを攻略する二段攻撃作戦となっていた。
進軍限界点は、蘭印諸島の東端チモール島まで。オーストラリアまでの拡大はなかった。またこの時点では、英領ビルマへの具体的な作戦も無かったようだ。

対英米戦開始時のアジア、太平洋地域


<「南方軍作戦記録(比島、緬甸、濠北、ボルネオ)」で見ると>

「南方作戦」の概要を、「第一復員局」の「南方軍作戦記録(比島、緬甸、濠北、ボルネオ)」で見ると、以下のようだ。

<まず第一復員局とは?>
日本の敗戦によって、1945年(昭和20年)12月1日に陸軍省が廃止・改組され、中央省庁の「第一復員省」が設置。同じく海軍省が改組され「第二復員省」が設置された。
この両省が1946年6月15日に廃止、改編されて新しく出来たのが「復員庁」で、その中で陸軍関係を担当した部局が「第一復員局」だ。

<南方作戦記録>
「南方作戦」の目的は、①「東亜に於ける米国、英国及び蘭国の主要なる根拠を覆滅(ふくめつ)し、南方の要域を占領確保するに在り」
②「南方軍の占領すべき地域は、比律賓(フィリピン)、英領馬來(マレー)、緬甸(ビルマ)、爪哇(ジャワ)「スマトラ」「ボルネオ」「チモール」島とす」

作戦方針は、「南方軍は聯合艦隊と協同し、比律賓(フィリピン)及び英領馬來(マレー)に対する先制急襲を以て、同時に作戦を開始し、勉めて短期間に作戦目的を完遂す」としている。

作戦主体である「南方軍」と言うのは、日本陸軍の編成単位のひとつで、ひとつの戦域を統括する最大規模、最上級の編成単位である「総軍」(general army)のひとつで、大本営直轄部隊を除いた、南方戦線における在南方の陸軍部隊を統括していた。軍隊符号は「NA」。編成は1941年(昭和16年)11月6日。
それまで他にあった総軍は、1939年(昭和14年)9月12日編成の「支那派遣軍」(CGA)しかなく、満州を統括していた関東軍が総軍に昇格したのは、対英米戦開始後の1942年10月1日になってからだ。外地における総軍は、終戦までこの3つしかなかった。
「聯合艦隊」は、日本海軍が2個以上の常設艦隊で編成した艦隊で、陸軍の「総軍」に匹敵する。海軍内での略称は「GF」。

作戦指導要領では、作戦は「第一期」から「第三期」に分かれている。
「第一期作戦」は、
「馬來(マレー)に対する先遣兵団の急襲上陸(状況に依り先制空襲)、並びに比律賓(フィリピン)に対する対米先制空襲を以て作戦を開始し、航空作戦の成果を利用して、攻略兵団の主力を先ず比律賓(フィリピン)に、次いで馬來(マレー)に上陸せしめ、速やかに比律賓(フィリピン)及び英領馬來(マレー)を攻略す。
別に開戦初頭英領「ボルネオ」の要地を占領し、また泰国(タイ)及び印度支那(インドシナ)の安定を確保す」

「第二期作戦」は、
「前期の作戦準備進捗に伴い、速やかに爪哇(ジャワ)方面に於ける敵航空勢力を制圧して、同島を攻略す。
また新嘉坡(シンガポール)攻略後、適時北部「スマトラ」の要域を占領す。
第一、第二期作戦間、機を見て南部緬甸(ビルマ)の航空基地等を奪取す」

「第三期作戦」は、
「占領地域を安定確保す。又状況の許す限り、緬甸(ビルマ)処理の為の作戦を行う。本作戦の実施は、別命せらる」
とされていた。

「南方軍作戦記録(比島、緬甸、濠北、ボルネオ)」

<南方作戦の各作戦内容>

「南方作戦陸海軍中央協定」では、各方面の作戦は以下の様だった。

1.「E作戦」マレー作戦:英国の根拠地シンガポール攻略。
戦力は第25軍の近衛師団(宮)、第5師団(通称号:鯉・編成地:広島)、第18師団(菊・久留米)、第56師団(龍・久留米)の4個師団。

2.「M作戦」フィリピン作戦:ルソン島飛行場の確保と米航空戦力の撃滅、ダバオ占領、マニラ占領。
戦力は、第14軍の第16師団(垣・京都)、第48師団(海・海南島)の2個師団が主力。第5飛行集団。

3.「C作戦」香港作戦:援蒋ルートの一角、英国極東政策の根拠地である香港島の攻略。戦力は、第38師団((沼・名古屋)で、帝国陸軍最大の重砲兵団である第一砲兵隊。

4.「G作戦」グアム作戦:グアム島を攻略して南洋諸島方面の敵の脅威を封殺する。
戦力は、主に海軍の第四艦隊と、陸軍は大本営直轄部隊である南海支隊。

5.「R作戦」ビスマルク作戦:ビスマルク諸島、特にラバウルの航空基地の占領確保。米豪連絡線の遮断を念頭にした作戦だったのかもしれない。
戦力は、主に海軍の第四艦隊と、陸軍は南海支隊。

6.「B作戦」英領ボルネオ作戦:資源(ボルネオ島タカランの油田)並びに航空基地の占領確保。
戦力は、陸軍は第35歩兵旅団。

7.「H作戦」蘭領印度作戦:蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)の石油資源の確保。スンダ列島に防衛線を形成する。
戦力は、第16軍の第48師団(海・海南島)他。

英米蘭軍の兵力配置

英米蘭軍の兵力配置

英米蘭軍の兵力配置

英米蘭軍の兵力配置