<4日目―7>
2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。
モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。
<ビルマがイギリスの植民地となった経緯>
1824年の第一次英緬戦争で、イギリス東インド会社EIC(East India Company)の軍隊に敗れたビルマ族のコンバウン朝は、1826年の「アンダボ条約」でイギリスにアラカン(現ラカイン州 Rakhaing State)とテナセリウム(現タニンダーリ地方域 Tanintharyi Division)を割譲。イギリスはこれを英領ビルマとした。
その後、イギリスは1852年の第二次英麺戦争で勝利し、コンバウン朝はエーヤワディー河(Ayeyarwady)のデルタ地帯(下ビルマ)をイギリスに割譲。イギリスはこの地にあったヤンゴンを「ラングーン」(Rangoon)と改名し、英領ビルマの首都をモウラミャインからラングーン移した。
1858年イギリスは,、インド全土で起きたセポイ(シパーヒー Sipahi 兵士・軍人)の反乱(Sepoy Mutiny)に端を発した「インド大反乱」(Indian Rebellion)を機に、インドに於けるイギリス東インド会社EICによる支配を止め、イギリス本国による直接統治に踏み切った。
セポイ兵とはEICが編成したインド人傭兵のことだ。
「インド統治改善法」を可決し、EICの持つ全ての権限をイギリス国王に委譲させたため、下ビルマの統治はEICから、イギリスの直接統治となった。
次いで1885年の第三次英麺戦争では、イギリス軍は下ビルマのみならず上ビルマを含む全ビルマを占領し、イギリスはビルマ(現ミャンマー)全土を植民地とする。
君主制は廃止され、ビルマ族の王朝コンバウン朝(konbaung dynasty)は滅亡し、最後の王ティーボーはインドのボンベイに移された。
ビルマはイギリス領インド帝国の「ビルマ州 The Province of Burma」となり、その後1886年から1947年までの62年間、イギリスの植民地となっていた。首都はラングーン。
<イギリスの自治領「ビルマ省」と自治政府>
植民地ビルマの行政区画は、国土のうち中央の平野部分は「管区ビルマ」としてイギリスが直接統治した。これは現在のミャンマーの行政区分の「地方域 Division」で、主に人口の約70%を占めるビルマ族が多く居住する地域だ。
一方周辺の山岳地帯は「辺境地域」(Frontier Areas)として、イギリスに忠誠を誓う「藩王」(土侯)が統治する体制だった。これは現在のミャンマーのビルマ族以外の少数民族の居住区域である「州(State)」の大部分で、ここは英領ビルマ辺境局(Burma Frontier Service)によって管理されていた。
1935年(昭和10年)の「新インド統治法」に依って、ビルマは英領インド帝国から分離され、1937年の「ビルマ統治法」(the Government of Burma Act.)に依ってイギリスの自治領「ビルマ省」(Office of the Secretary of State for Burma)となり、本国の「インド・ビルマ大臣」(Secretary of State for India and Burma)よって統治されるようになった。
「管区ビルマ」では、イギリス国王に任命された直轄植民地ビルマの「総督」が、立法、行政、司法の頂点に立って居たが、その下に自治領としての立法府として制限付きの法案提出権を持つ上下両院議会と行政府を持っていた。
行政府は下院議員の中から「総督」に指名された首相が、8~9名程度の大臣からなる内閣を組織し、ビルマ政庁各局の行政に影響力を行使していた。
しかし、「総督」が最終的な拒否権を持っていたので植民地支配下であることには変わりないが、従来は内閣の権限は教育や農林分野のみだったものが、「ビルマ統治法」以降の内閣は外交と防衛を除く全部に影響力を行使出来たと考える説と、総督の拒否権が統治全般に及んで、自治権は無いに等しかったという考えもある様だ。
ビルマ政庁では、従来は150人ほどのインド高等文官(ISC)によって独占されていたが、以後は内務、司法、財政、通算などの分野に、ビルマ人が大臣として参画することになった。
1937年4月初代首相は、1936年の下院選挙で第2党になった貧民ウンターヌ結社のバー・モウ(Ba Maw)が指名され、内閣を組織した。
しかし1939年2月に起きた反英ゼネストの責任をとって、内閣不信任決議で退陣。
1940年9月に第3代首相に指名されたのが、その政変を主導したウ・ソオ(U So)だった。
1930年から32年に、下ビルマでは「サヤー・サン反乱」(Saya San Rebellion)と呼ばれる大規模な農民反乱がおきていた。
これは人頭税(納税の力に関係なく、国民1人ごとに課される税金)やインド人高利貸し(南インド・タミールナードゥのチェッティヤー・カーストなど)への反発、世界恐慌の余波から米価の下落によって最低限の生活水準も維持できなくなっていたためだ。
1930年12月末、サヤー・サンはガロン(Galon)という結社を作って農民一揆をおこすが、捕まって裁判にかけられ、1931年11月28日裁判で有罪になって絞首刑になった。
その時法廷で弁護に立ち有名になったのが、バー・モウやウ・ソオ達だった。
<イギリスの植民地政策は「民族分割統治」>
社会的には「民族分割統治」(Divide and rule)が徹底された様だ。
人種的には、イギリス人、ヨーロッパ人とビルマ人の混血である「アングロ・ビルマ人」、その下にビルマ人と言うヒエラルキーが作られた。
ビルマの公務員は、英国系ビルマ人(アングロ・ビルマ人)と主にインド人によって占められていた。
軍隊は、英領ビルマには、イギリス人の将校団とは別に、インド人のセポイ兵や、ネパール人のグルカ兵(Gurkha)が駐屯していたが、その他にカレン族(Kayin)、カチン族(Kachin)、チン族(Chin)などによる植民地軍が編成されており、ビルマ族の反乱を鎮圧するためなどに用いられたと言われている。
職業的には、インド人が行政・金融を担い、華僑が商業、軍や警察はカレン族など少数民族が主に担った様だ。カレン族は現在も350万人とミャンマーの非ビルマ族の中では最大だ。
人口の70%を占めるビルマ族は最下層の農奴の様だったと記載されたものもある。
この分断統治、少数民族への優遇政策が、1948年1月4日のビルマの独立以降の、ビルマ族と少数民族の対立、武装闘争、ビルマ国軍の強大化、軍政へとつながっていく要因のひとつなのかもしれない。
<植民地ビルマの経済>
イギリスは植民地ビルマに、米、木材、石油、銅などの天然資源を求めてた。
最初に注目されたのは、木材で、分けてもチーク材(teak)の産地としてだった。
チーク材は堅く、伸縮率も低く、水に強いため、商船や艦船の造成に使用された。産地であるインドのチーク材が枯渇し始めたため、ビルマが注目されたのだ。
1860年代後半になると、艦船は木造帆船から鋼鉄蒸気船に変わり、大型船のチーク材使用は限定的になるが、小型船や、鉄道の枕木や貨車、客車など鉄道需要が多くなった。
1886年からイギリスは、ビルマ全土の木材を植民地政府の所管としていた。
次いで、1868年のスエズ運河開通によって、ミャンマーからヨーロッパへの航行距離が短縮されたことから、ヨーロッパ向け米の輸出が急増した。
このためイギリスは、イラワジ河(Irrawaddy 現エーヤワディー河Ayeyarwady)デルタ周辺の肥沃な土地を利用し、マングローブ林を一掃して、米の生産を行った。
米の生産・加工はビルマの一大産業となり、米のモノカルチャー体制が作られた。
米の生産を増やすため、多くのビルマ人が北部の中心地からイラワジ・デルタ地帯に移動した。
しかし、ビルマ人農民に対し、英国系銀行は不動産ローンを与えなかった。
彼らは耕作する土地を得るため、インド系金融組織「チェッティヤー」から高利で金を借りるが、チェッティヤーは借り手が債務不履行になるとすぐに土地を差し押さえたので、多くのビルマ人農民は土地を手放さざるを得なかった。
このため何千万人というインド人労働者がビルマに移住し、ビルマ人農民を追い出すケースも出て来ていたらしい。
これら精米、米の流通、石油・工業、林業、内航業などの収益性の高い経済活動は、全てイギリス資本の支配下に置かれ、工業製品は高値でイギリスから輸入されていたらしい。
石油、鉱物などの資源開発、鉄道網の敷設、港湾設備の整備等も、事業利益はイギリスに帰して、工事に従事したのはインド人と中国人が主だったと言われている。
また1908年以降、イギリス資本によりパラゴムの栽培が始まり、1909年~15年にかけ急速に拡大していた。
<ナショナリズム>
一方、植民地支配に対するナショナリズムが起こり始めていた。
1906年に「仏教青年会」(Yaung Men's Buddhist Association YMBA)が結成された。
最初は王朝が廃止され政教分離が行われたため、仏教の僧侶が社会的地位を失ったことに対し、上座部仏教の復興を目指す運動だった。
しかし第一次大戦下、1918年1月8日アメリカのウィルソン大統領が「14箇条の平和原則」で提唱した、民族自決と民主主義に基づく国際秩序の再構築などの主張に触発されて、一部のメンバーが1920年、反英、民族主義勢力の連合体である「ビルマ人団体総評議会」(General Council of Burmese Associations GCBA)を設立した。
1930年(昭和10年)5月には、反英組織「われらビルマ人協会(ド・バマー・アスイーアヨウン)」(タキン党 Thakin Party)が結成された。
これはメンバーが、ビルマ人がビルマの本当の主人だとの意味から、お互いを「タキン(主人)」と呼び合っていたためらしい。