<9日目ー17>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。。
<中国の国共内戦>
1948年2月19日から2月25日まで、インド西ベンガル州にあるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ Kolkata)で「アジア共産主義青年会議」(カルカッタ会議)が開催された。
「カルカッタ会議」の開かれていた1948年2月、この時期の中国共産党は、まさに国共内戦の只中に在って、「革命武装路線」一択だった時代だ。
1921年7月23日、上海で誕生した中国共産党は、日中戦争(日本側呼称は「支那事変」)前から蒋介石率いる中国国民党との間で敵対関係にあったが、コミンテルンの指導で「国共合作」や分裂を繰り返していた。
日中戦争中の始まった1937年(昭和12年)から1945年までは、第二次国共合作の期間だった。
1945年8月の日本の降伏の後、アメリカの仲介で8月28日「重慶会議」が開かれ、内戦回避の話し合いが持たれた。
しかし、9月10日山西省上堂で起きた国民党の国民革命軍(NRA)と、中国共産党が1927年8月1日に組織した軍事組織「工農紅軍」(1946年11月28日からは「人民解放軍」)との間で武力衝突が始まり、翌1946年にかけて全面的な内戦に突入していた。
戦時中から共産軍の強さを認識していたアメリカは、腐敗した国民党政府の崩壊を恐れ、1946年1月に「マーシャル・プラン」で有名なジョージ・マーシャル(George Marshall)使節団を送り、再度国共合作を示唆していた。
アメリカはもともと第二次大戦前より、中国に於ける自国の権益が日本の大陸進出によって脅かされることへの反発から、日本へ経済制裁を科したため、結果日米戦争に拡大していた。
戦後は改めて中国での権益の確保と、更にソ連や共産主義への対峙のため、中国に干渉し続けていたのだ。
この時期、中国に駐留する米兵は11万人と言われている。
一方ソ連も、中国東北部(満州)に駐留し続けていた。
この年の3月5日、イギリスのチャーチルが「鉄のカーテン」演説で、米ソによる東西冷戦構造が強まっていることを示唆している。
共産軍の勢力は、はじめ国民党軍に比べ弱小だったが、戦後降伏した日本軍から新式の武器を鹵獲したり、さらには日本によって開発・建設された満州の工業や鉱業を引き継ぎ、残留日本人技術者やパイロットを徴用するなどして戦力を強化し、国民党軍と均衡するような軍事力を手にしていた。
さらには当初ソ連からの援助も得ていたが、国民党の蒋介石が、ソ連のヨシフ・スターリン(Losif Vissarionovich Stalin)共産党書記長と交渉し、満州の利権と引き換えに中国共産軍への援助を止める協定を結んだため、援助は行われなくなった。
この時期の各軍勢力は、国民党の国民革命軍430万人(正規軍200万人)に対し、工農紅軍(人民解放軍)は420万人(正規軍120万人)と拮抗しつつあった。
この勢力を持って、拠点である北方から南下して、国民党軍を圧迫しつつあったのだ。
これに対しアメリカは、国民党軍に大量の援助をするとともに、自らも「ブリーガー作戦(Operation Beleaguer)」で、アメリカ海兵隊が中国東北部の河北省、山東省を占領するなどしたため、今度は一挙に国民党軍が優勢になった。
1946年6月26日、蒋介石総統は国民党軍160万人を動員して、全面侵攻の命令を発した。
しかしアメリカは、ソ連との関係を配慮して、同年12月18日にトルーマン大統領が、中国の内戦にアメリカが巻き込まれるのを避ける旨の対中政策を発表している。
国民党軍の大攻勢により、1947年3月には共産軍の拠点である「延安」が陥落するが、
国民党政府は、戦費を賄う必要などから法幣の大量発行を行い、激しいインフレーションを引き起こし、組織の腐敗などと相まって民衆の支持を失いつつあった。
「法幣」とは、1935年11月3日から発行していた不換紙幣で、中国民国の法定貨幣となっていた。
さらに、5月から6月にかけ国民党軍の敗北が続き、さらに国民党軍の腐敗や失策によってどんどん民心が離れていった。
1947年6月の時点では、今度は共産軍が120万人から195万人に増えたのに対し、国民党軍は430万人が373万人に減少していた。
奇しくも1938年5月、「延安」で行われた抗日戦争研究会の講演をもとにした中国共産党の指導者毛沢東の「持久戦論」の様に、解放区を広げてきた農村部を中心に、共産軍は勢力を盛り返してきていた。
1947年から、陳平が失踪した莱特ライテク追跡の任を負って、香港で東南アジア各国の共産党と共に、中国共産党の責任者の意見を聞いていたのは、おおよそ中国の国共内戦のこの段階だった。
まだ大陸にあったころの中華民国は、全国の重要な12都市を「院轄市」に指定していた。
「院轄市」とは、国の行政院の直轄市の意味だ。
上海、首都である南京、北平(北京)、天津、漢口、青島、広州、重慶、大連(ソ連占領下)、瀋陽、哈爾濱(ハルピン)、西安だ。
1948年時点で、このうちの7都市は、まだ国民党軍が支配していた。
しかし、1948年から1949年初頭に起きた「遼瀋戦役」、「准海戦役」、「平津戦役」の三大戦役で、共産軍は大勝し、敗れた国民党軍は一気に主戦力を喪失し、支配地域を次々に失っていくことになった。
1949年1月、三大戦役の敗北の責任をとって、蒋介石が総統を辞任。後任に副総統だった李宗仁が総統に就いた。
1949年4月23日、渡江戦役で、共産軍が首都南京を占領。
その後5月16日漢口、5月20日西安、5月27日上海、6月12日青島と、立て続けに共産軍が占領。
そして、1949年10月1日には北京で、毛沢東が中華人民共和国建国を宣言する。
この時点で国民党軍はまだ華南三省と西南部三省を支配していたが、10月14日広州、11月30日重慶、12月27日には成都も共産軍に占領された。
なお共産軍は、1950年春までにウイグル人の地、新疆に侵攻、10月には独立国だったチベットにまで侵攻しこれを占領している。
1949年12月7日、中華民国中央政府は、台湾に逃れた。
これに伴い、中国に駐留していたアメリカ軍も、1950年にかけ順次台湾に撤退する。
共産軍は台湾にまで侵攻する予定もあったが、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争と、10月5日に「抗美援朝義勇軍」を派遣するなどのため、取り止めになったらしい。