<9日目ー6>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。
<シンガポール華僑粛清事件「大検証」「Sook Ching」>
1941年(昭和16年)12月8日午前02:15、日本陸軍第18師団(通称号「菊」)の侘美支隊(侘美浩少将)約5,500名が、マレー北部のコタバル(Kota Bharu)に敵前上陸して始まった「マレー作戦」(「馬来作戦」、南方作戦陸海軍中央協定では「E作戦」)は、1942年(昭和17年)2月15日に難攻不落を誇ったシンガポール要塞が陥落して終結した。
その直後に、「シンガポール華僑粛清事件」(1942年2月~3月)が起きた。
シンガポールでは日中戦争(当時の日本側呼称は「支那事変」)の拡大により、以前から住民の大多数を占める華僑や華人による対中支援活動が活発化していた。
1938年10月の南僑総会の組織化、1941年12月30日にはイギリス植民地政府の要請により、「星州華僑抗敵動員総会」が発足して抗日抵抗運動が活発化していた。
一方日本軍も、シンガポールの華僑が東南アジアにおける抗日運動の中心だと見做していた。
先述した、昭和3年から7年当時のマレー半島や蘭印の紀行記である金子光晴の「マレー蘭印紀行」でも、「馬拉加(マラッカ)やピナン(ペナン)では、排日さわぎで邦人中にけが人さえ出来た。シンガポールでも新世界(遊興施設)中で、浴衣の琉球人が袋叩きされた」と、当時のマレー半島の日本人の置かれた状況を伝え、「シンガポールから入り込んでくる排日宣伝」などと、その中でもシンガポールが「排日」活動の中心であったことが記されている。
日本軍の南方占領の目的は、1941年11月20日に開かれた大本営政府連絡会でも示された様に、南方の重要資源の確保であったが、東南アジア各地で事業経営の実権を握っていた華僑に対する施策は、占領当初は現地の軍に任されていた。
第25軍の「華僑工作実施要領」(1941年2月)では、反抗するものはその存在を認めないとしていたが、現地の華僑は、蒋介石の国民党政府である重慶政府ばかりか共産軍をも支持し、そのための義援金を募り、故国投資活動、日貨排斥などの宣伝活動を行っていた。
そんな中、華僑がマレー作戦中に火花信号で英軍機を誘導する通敵行為を行った、シンガポール戦では激戦地のブキテマ高地で、華僑義勇軍が日本軍に多大の損害を与えた、更には抗日華僑が市内で武装攪乱を準備したなどの報告が相次いだ。
このため、2月15日シンガポール陥落後、翌2月16日には第25軍の野戦憲兵隊が市内に入り、昭南警備隊が編成された。そして第25軍の作戦主任参謀であった辻正信中佐より「抗日分子」の掃討を指示された。
「抗日分子」とは、元華僑義勇軍兵士、共産主義者、略奪者、武器を所持・隠匿する者、日本軍の作戦行動を妨害、治安を乱す者とされた。
そのため2月19日、山下第25軍司令官名で以下の布告が行われた。
「昭南島在住18歳から50歳までの男子は、21日正午までに左の地区に集合すべし。
アラブ街及びジャラン・プッサール広場(他4か所) 右に違反する者は厳重処置さるべし。尚、各自は飲料水及び食料を携行すべし。 大日本帝国軍司令官」
「昭南島」とは、日本軍占領後、大本営政府連絡会議の決定に従い、2月17日にシンガポールを「昭南島」と命名したものだ。
当時のシンガポールの華僑人口は、約60万人。対象となったのは、約20万人だった。
21日から23日にかけ、対象となった華僑や華人が指定された場所に集まってきた。
しかし現場には鉄条網が張られていたが、華僑が呼称した「大検証」はいつ始まるのは誰も分からなかった。
ある華僑の証言では、炎天下で何日も待った。布告にあった「各自は飲料水及び食料を携行すべし」の意味がはじめて分かったと。大小便は通路のそばの下水で済ませた。その道路で3日過ごした後に、日本軍による検問が始まった。
抗日分子を選別、疑いのある場所は捜索された。
検問を無事通過した者は、「検」と書かれた紙を渡されたり、所持していた「華僑登記證」や、着ていた自分の服の上に「検」の印を押された人もいたらしい。
彼らは爾後、なるべく外出しないようにしながら、もし外出するときは、服から切り取った「検」の印の付いた布を必ず携帯したと述べている。
反対に「抗日分子」とされた者は、トラックでチャンギ海岸やその他の海辺や山中に運ばれた。
何人もが電線などで繋がれたまま、海に入るよう促され、背後から機銃掃射で殺害するなど秘密裏に処刑された。
市内に続いてシンガポールの郊外では、2月28日から3月1日にわたり近衛師団によって華僑の粛清が行われた。
この事件は、戦後の1947年3月10日シンガポールのヴィクトリア・メモリアルホールで行われた裁判で、被害者数は諸説あるが、おおよそ5000名と言われている。
<マレー作戦以後の各師団>
「華僑粛清(大検証)」の布告があった2月19日、南方軍はシンガポール占領後の爾後の命令を発している。
第18師団は3月上旬に、第5師団は3月中旬に他方面へ転用、ペナン島には海軍基地を設定することとなった。
占領初期の1942年2月21日から1943年初頭までは、第25軍が直接占領地域の軍政を担当した。
ジョホール州を除くマレー半島全域は、第5師団(5D)が担当。
ジョホール州は、第18師団(18D)が担当。
シンガポール島は、市内を除き近衛師団(司令官は西村琢磨中将)が担当した。
マレー作戦終了後の1942年(昭和17年)6月1日に、近衛第2師団(2GD「宮」)はシンガポールから蘭領東インド(現インドネシア)のスマトラ島の中・北部の攻略、以後治安の確保に当たっている。
第5師団は、マレー半島の治安維持に当たった後、フィリピン、ニューギニア方面に転用され、同方面の作戦にあたった。
第18師団は、4月2日シンガポールを発って、海路ビルマ(現在のミャンマー)に向かい、4月8日ラングーン(現在のヤンゴン)に上陸。以後、北部フーコン谷地などで凄惨な戦いを行うことになる。