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マレーシアひとり旅(2024年) <41> まだまだ9日目 「カルカッタ会議」と東南アジアの武装蜂起(6)MCPの蜂起と非常事態宣言

<9日目ー18>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。「独立宣言記念館」でマレーシアの歴史に触れている。


<MCPの武装蜂起と非常事態宣言Malayan Emergency / Darurat Malaya>
1948年2月19日から2月25日まで、インド西ベンガル州にあるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ Kolkata)で「アジア共産主義青年会議」(カルカッタ会議)が開催された。

1948年3月21日、シンガポールで開催されたマラヤ共産党MCP中央委員会は、「武装革命路線」を採択する。
平和的な交渉では帝国主義は後退せず、戦後MCPがとってきた路線は右傾投降主義で、国連の効能を過大視し、抗日軍の解散は誤りだったと総括した。

5月5日、再開した中央委員会で、ゲリラ部隊の結成を決めたが、本格的な武装蜂起までには、準備に数か月は掛かると想定していたらしい。
しかし、先に体制の整ったイギリス植民地政府は、拡大するストライキや、労働組合に危機感を抱き、民族独立、労働条件改善要求を掲げる組合指導者への追放令を出した。
これを受けたMCPは、急遽全都市支部に武闘指令を発して、5月31日には指導者は地下に潜らざるを得なくなった。

MCPとその軍事部門の「マレー民族解放軍MNLA」(Malayan National Liberation Army)は、その後全土でゲリラ戦を展開する。
マラヤ全土の農場、鉱山、警察署、ペナンやマレー各地で欧州人の農園主を殺害。共産ゲリラはジャングルに潜伏して、山村に散在する華人住民の支援を受けながら反英・反植民地闘争を始めた。

対するイギリス植民地政府は、1948年6月16日、マレー全土に「非常事態」を宣言し、イギリス軍、イギリス連邦軍によるゲリラ掃討作戦を始めた。
この「非常事態」宣言は、1960年7月12日まで続くことになる。

マラヤ危機「非常事態宣言」

陳平の指名手配



「マラヤ危機」の勃発時、MNLAのゲリラは殆どが華人で、数はおおよそ8,000人。
対してイギリス軍は、マラヤに13個の歩兵大隊を持っていた。内訳は、グルカ兵(Grkhaネパール山岳民族の兵)7個大隊。イギリス兵3個大隊、王立マラヤ兵2個大隊。他に王立砲兵隊がいた。
1個大隊はおおよそ500~600名なので、全体で6,500~7,000名程度だったと思われる。
しかしこれでは小規模すぎると、イギリス本国の王立海兵隊、イギリス領東アフリカやオーストラリア、ニュージーランドなど英連邦の軍などが増強された。
更には、1950年に、ゲリラ戦に精通した英国の特殊空挺部隊SAS(Special Air Service)まで動員されている。

テロによる武装反乱は、マラヤの社会、経済、政治を不安定にし、テロリストにより人々の生活は脅かされ、社会インフラも破壊された。
これに対し、1950年、ハロルド・ブリッグスHarold Briggs将軍が赴任して、マレーの山地に住む住民を、新しい村(New Village)に移住させ、ゲリラの補給路を断つ「ブリッグス・プランBriggs Plan」を実行し始める。
MNLAの共産ゲリラは、ジャングルに潜伏し、農村の華人コミュニティーの支援で活動していたため、この支援を断つ作戦に出たのだ。
1951年までにマレー半島の山地に住む住民423,000人を新しい村に移住させ、共産ゲリラの補給路を断った。

しかし50年代に入ってもテロ活動は続き、1950年2月23日ブキッケポン警察署襲撃、1951年3月25日スムル川のグアムサン地区でマレー連隊とゲリラの銃撃戦で、マレー連隊17名、ゲリラ29名死亡。
10月6日には、KLの近郊で、MCPによって、マラヤ高等弁務官のヘンリー・ガーニー(Sir Henry Gurney)が、ブレーザーズ・ヒルへ向かう途中襲撃され暗殺された。

それでも1954年ごろには、イギリス軍の鎮圧作戦と、マラヤの自治を進展させることで、ゲリラの支持基盤を衰退させ、MNLAの規模を1/3まで縮小させていた。
さらにイギリス軍はマラヤの中央部を制圧したため、共産ゲリラは北部のタイとの国境地帯を根拠に抵抗を続ける様になっていた。

1955年7月のマラヤで最初の総選挙を前に、国の独立を目指すUMNO党首のラーマンは、共産主義者への恩赦を打ち出した。
1955年9月8日選挙に勝利し、マラヤ連邦の首相となったラーマンは、マラヤ共産党MCPとの和解を試みて、12月28日、タイ国境のクダ州(Kedah)のバリン(Baling)でMCPの指導者陳平と会談。MCPの要求は条件付きの停戦と、MCPの合法化だったが、ラーマンは、MCPの合法化は受け入れなかった。

その後、イギリス軍の鎮圧活動とマラヤの自治が進展し、MCPのゲリラ活動が沈静化したため、1960年7月31日、12年続いた「非常事態」は終了した。
この間MCPを率いて武装闘争を展開していた、総書記の陳平は、タイ南部から北京に向けて逃亡した。

<「非常事態」宣言解除後>
「非常事態」宣言は終了してもマラヤ危機は、1960年以後も、最終的には1989年12月にタイ南部の町ハジャイで(Hat Yai)和平協定を締結するまで続いた。
しかし1970年から80年代になって、マラヤ共産党の戦況が更に悪化してくると、内部抗争が起き始めた。
その頃は中国共産党政治部の指示を受けていて、おりしも1966年6月から始まっていた中国の文化大革命の影響を受け、党員同士が粛清し合うよう指示が出て、粛清のため自分の妻を殺す人さえ出てきていた。

1948年の「非常事態」によって、多くの華人が追放された。
1950年からマラヤ独立の1957年までの間に、38回にわたり、2~3万人が中国に送還されたと言われている。
マラヤ国民の身分証を持っていないか、名前がMCPの逮捕者リストに載っていれば警察に捕まり、家族ごと中国に追放された。

マラヤの華僑ばかりでなく、インドネシア、ビルマなど、東南アジア各国で同じように中国に追放になった華僑は、親戚などの身元引受人のいない場合、中国本土各地に作られた「華僑農場」に収容された。
その農場の数は、1969年までに84か所に上ったと言われている。
マラヤの家族や親せきが、生活を支えるため彼らに送金したが、そのため逆に、1966年6月に始まった文化大革命で、中国本土に帰国した華人は、外国のスパイの嫌疑を掛けられて収容所に入れられる事態も発生していた。

マラヤ共産党MCPやMNLAの武装反乱が支持を失った理由は何だろう。
ゲリラの総人数が約8,000名と少ない。ベトナムでの解放戦線の数が10万人に比べ、圧倒的に少ない。
他の共産主義国家からの支援がない。
マラヤは陸上の国境が、非共産国のタイしかなく、補給や退避場所が限られていた。
MCP党員は殆どが華僑か華人。北京に傾倒し、戦後マレー人に報復するなど、マレー人の反感を買っていて、マレー国内では反華僑、反華人意識が強かった。
そして、もともとマレー人は敬虔なイスラム教徒で、宗教を否定する共産主義にシンパシーを感じていない、などが挙げられるのかもしれない。