<9日目ー16>
2024年7月30日 火曜日 マラッカ 最高32℃ 最低26℃。
マラッカ3日目。マラッカの丘にある「独立宣言記念館」で、マレーシアの歴史に触れている。。
<マラヤ危機>
1948年2月19日から2月25日まで、インド西ベンガル州にあるカルカッタ(Calcutta 現コルカタ Kolkata)で「アジア共産主義青年会議」(カルカッタ会議)が開催された。
その直後の1948年3月21日、マラヤ共産党MCPもついに武装闘争を開始する。
1948年1月31日、2月1日の政治局会議で、英当局の弾圧下では「和平路線」の継続は無理との意見が出たのだ。
MCP幹部は、「カルカッタ会議」の帰りにシンガポールに立ち寄った、オーストラリア共産党の書記長ラウレンス・シャーキー(Laurence Sharkey)と会談した。
その際、彼の「ソ連共産党の反ネルー姿勢を受けて、インド共産党も強硬路線を採用することになった」との発言を、インド共産党が武装闘争を始めるものと解釈され、これはマラヤでも武装闘争しかないと、莱特ライテクの後に総書記となっていた陳平は考えたらしい。
しかしマラヤ共産党MCPが「武装闘争」を決定する1年前に、その事件が起こっていた。
1947年3月、マラヤ共産党MCPでは、戦前から党を率いていた総書記の莱特ライテクが、100万ドルに及ぶ党の活動資金を持って突如失踪したのだ。
<莱特ライテクと陳平チンペン>
失踪よりさかのぼる1947年2月、英当局は、マラヤ共産党MCP総書記の莱特ライテクに、武器秘匿場所の地図を提出するよう命じた。
これは1945年9月、戦後のマレー半島に再び戻ってきたイギリス軍が、マラヤ共産党MCPとマラヤ人民抗日軍MPAJAに武装解除を求めた件だ。
11月15日MPAJAの解旨の協定が成立し、共産ゲリラ側は、特定の武器に限って供出したが、大半の武器は秘匿されていた様だ。そのことを指している。
しかし、総書記の莱特ライテクは従わなかった。
すると、1947年2月8日、英当局はシンガポールの英字紙に「莱特ライテクは多くの変名を持つ怪人物」との記事を掲載させ、地図を渡さなければスパイ行為を暴露すると脅したのだ。
これに対し莱特ライテクは、2月13日、「英国は信義背反、民主活動破壊の一切の責任を負わねばならない」という声明を発表した。これ以上の難題を吹きかけるなら武装闘争を含め闘争を激化させるとの莱特ライテク側の反抗だった。
実は、彼はマラヤ共産党MCPのトップである総書記であり、同時にMCP内に潜り込んだイギリスのスパイでもあったのだ。
しかし秘匿した武器の情報など、全てを英側に明かしてしまえば、英側にスパイだと明らかにするゾと自分の生殺与奪の権を奪われてしまうの惧れて、スパイらしく自身に保険を掛ける様に、持っている情報を小出しにしていたのだろう。
莱特ライテクは、ベトナム人で1912年の生まれだ。
黄紹東(ホワン・シャオドン)、張紅(ジャン・ホン)、莱特(ライテク)など様々な名を持っている。
若い時インドシナ(ベトナム)共産党に入り、活動中フランス植民地当局に逮捕され、その後英国当局に引き渡された。
1932年末には、英側のスパイとしてシンガポールに送り込まれたとされている。
シンガポールでは、コミンテルンの代表を名乗って左翼組織に潜入。
1934年ごろマラヤ共産党MCPに入党。その後、シンガポールで起きた1936年のMCPの内紛をまとめMCP内部で力をつけて行った。
1939年には総書記に就く。
1941年12月の日本軍上陸、1942年2月15日から始まった日本軍の占領下では、3月26日シンガポールで日本軍憲兵に逮捕されて以来、今度は日本軍のスパイになった。
釈放は4月末だった。
1942年9月1日の、日本軍警備隊により多くのMCPマラヤ共産党員が殺害された、バトゥー洞窟事件の密告者だとも言われている。
1945年8月、日本軍が降伏すると、今度は再びイギリスのスパイに戻った。
党内では、「武装闘争中止」、全民族に民主制度実現、身近な人民生活改善や、国連の植民地自決・自治の国際憲章の早期実現と言った「平和路線」を唱えた。
さらにイギリス当局には、民族自決の原則に則り、マラヤ自治政府の樹立、言論・集会・デモ・ストライキの絶対的自由の保障を求めた。
しかし、1946年末ごろから国際情勢の分析や資金運用で、党内で莱特ライテクへの疑惑が深まってきた。
そんな中、1947年2月英当局は、莱特ライテクに武器秘匿場所の地図を提出するよう命じたのだ。
1947年3月、莱特ライテクは党内の査問委員会に付されることになったが、その前に党の資金を持って海外に逃亡したのだ。
スパイだったことが明るみに出たことで、MCPは莱特ライテクを除籍し、党の裏切り者として死刑に処すと宣言した。
後の総書記陳平自身の供述では、1947年7月、陳平が中国共産党訪問の際、バンコクで偶然当人を見かけた。さらに香港での乗船名簿に莱特ライテクの偽名のひとつを発見した。
その後バンコクのベトナム人社会の協力で、タイ共産党員3名によってバンコクで殺害されたとしている。
この後、陳平(チンペン Chen Ping、本名は王文華)がMCPの総書記となる。
彼の両親は1918年中国から渡来した華人で、彼も華人だ。
1924年生まれで、1940年にマラヤ共産党に入党。人口の75%以上が華人のイポー(Ipoh)が州都の、錫鉱山で発展したペラ(Perak)州でMCPの書記となり、1947年3月に莱特ライテクの後任の総書記となった。
この時、1945年8月に行った武装闘争停止という莱特ライテク命令の意図と賢明さを、一度として疑ったことはないとし、政治局員誰もが方向転換の必要があるとは考えなかったと、後に語っている。
1945年10月30日行われた州委書記連席会議の席上、戦中に莱特ライテクの密告で日本軍に捕まった党幹部が、獄中で得た見分をもとに、「莱特ライテクは日本のスパイ」だと訴えた。
莱特ライテクは「英帝は、日本の手先となった反徒を使って、私と革命を売り渡そうとしている」と述べると、陳平は、「裏切り者の言は信じない。莱特ライテクを信ずるものは挙手を」と呼び掛け、莱特ライテクは信任を得た。
これに莱特ライテクは感動し、陳平を後継者として書記代理に指名したと言われている。
1947年、後任の総書記には陳平(チン・ペン Chin Peng)が就いた。
莱特ライテクの従来からの分析である「世界は平和に向かっている」との認識と、同年1月に中国の延安で発行された中国共産党「解放日報」論文が、相反しているので疑問視されていたが、莱特ライテクの失踪後も1947年12月まで党の基本方針である「和平路線」や「民主路線」は変わらなかった。
これは、マラヤは自治の実現条件さえ未成熟との認識と、このころまでイギリスで戦後初の労働党政権への期待が残っていたためと思われる。
では一体、1948年3月21日、従来の「和平路線」が、何故唐突とも思える様に「革命武装路線」に変わったのだろうか。
原不二夫氏が紹介している「Chin Peng『My Side of History』2003」などを参考に見てみよう。
1947年来、陳平が失踪した莱特ライテク追跡の任を負って、香港で東南アジア各国の共産党と中国共産党の責任者の意見を聞いたところ、必要なのは①「党建設」、②「民族統一戦線」、そして③「武装闘争」だった。
そこで戦後のマラヤ共産党の決定が、莱特ライテクの押し付けた、誤った路線であることが分かった。東南アジア諸党は、帰国後路線転換を検討することで合意したとある。
このことから、東南アジア各国の共産党は、当時中国共産党の強い指導下にあったらしい。