<13日目ー7>
2017年 6月3日 土曜日 マンダレー 晴れ 暑い35度
マンダレー郊外を巡っている。エーヤワディー河の畔の小高い丘、ザガインヒルには沢山の僧院やパヤーが建っている。
その中で、エーヤワディー河の河面を望む地に、沢山の旧日本軍兵士の慰霊碑が建って居る。
<1944年夏、太平洋域での戦況・マリアナ諸島の失陥>
1943年(昭和18年)9月30日、戦局の悪化から、大本営より「絶対国防圏」の設定が発令されていた。
「絶対国防圏」とは、本土防衛上及び戦争継続のため必要不可欠な領土や地域を定め、防衛を命じた地域のことで、「太平洋及びインド洋方面に於いて(中略)、千島、小笠原、内南洋(マリアナ諸島、カロリン諸島)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマ」などの地域だった。
しかし太平洋域では、アメリカ軍(米軍)の反攻は予想外に早く、1943年11月に米軍がギルバート諸島を占領。翌1944年(昭和19年)2月には、日本海軍聯合艦隊の拠点であるトラック島泊地への空襲や、マーシャル諸島の占領、3月にはパラオ諸島空襲と米軍の侵攻が続いていた。
そして1944年(昭和19年)6月15日、ビルマではインパール作戦が行われている最中、アメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸。
このため日本海軍は、第一想定正面のパラオ付近で米艦隊と決戦を行うこととして、日本の所有するほぼ全ての空母9隻からなる第一機動艦隊と第一航空艦隊の基地航空隊、更に戦艦5隻によって米艦隊を撃破することとした。
対する米海軍は、空母15隻、戦艦7隻を主力とする艦隊だった。
1944年(昭和19年)6月19日、両海軍はマリアナ沖で航空機同士の艦隊決戦となった。
しかし米海軍のレーダー探知による迎撃や、VT信管弾を使った対空砲火で、日本の攻撃機の2/3が撃墜されてしまうなど、日本艦隊は大敗北を喫することになった。
VT信管弾とは、近接信管を使った弾丸のことで、近接信管(Proximity fuze)は砲弾が目標物に命中しなくとも、一定の近接範囲内に達すれば起爆できる信管のこと。別名VT「Variable-time fuze」信管とも呼ばれていた。
この結果、日本軍の損害は空母3隻沈没、2隻中破、1隻小破。さらに多くの乗員と艦載機、基地航空隊機合わせて450機を失い、聯合艦隊は事実上再起不能となり、日本海軍は西太平洋の制海権、制空権を失ってしまった。
米軍の損害は、空母2隻小破、航空機120機の損失だけだった。
7月9日、米軍はサイパン島を占領。日本陸軍第43師団(誉・名古屋)の守備隊は全滅した。
東京まで1,500マイル(約2,400Km)以内にあるサイパン島イズリー飛行場を占領された結果、米爆撃機「B‐29」が日本本土の関東、中部地帯を空爆することが可能になった。
11月24日には、東京に最初のB‐29による爆撃が行われた。
これにより中部太平洋における「絶対国防圏」はもろくも突破されて仕舞い、本土と南方諸地域との分断の危機に直面することとなった。
このため大本営は、マリアナ失陥によって、千島、本土、南西諸島、台湾、フィリピンに渡る東西第一線の防衛に注力せざるを得なくなった。
<ミートキーナの戦い 第18師団(菊・久留米)、第56師団(龍・久留米)>
1944年(昭和19年)5月17日、インパール作戦が行われている最中、突如アメリカの空挺部隊が、ミートキーナ(Myitkyina現ミッチーナ)郊外の飛行場を急襲、奪取した。
ミートキーナはマンダレーからの鉄道の北の終着点であり、イラワジ河の水運の中継地として重要だが、何より日本軍の飛行場があった。
アメリカ側は、新しい援蒋ルート「レド公路」の開通は、全ビルマの奪還より大事だと考えていた。しかし1942年(昭和17年)12月1日から工事が始まっていたレド公路は、まだインド・ビルマの国境までしか達しておらず、現在の唯一の援蒋ルートは、空輸による「パンプ越え」しかなかった。
ミートキーナの占領によって、此処を空路の中継基地とすることで「ハンプ越え」の能力を大幅に向上させることが期待されていたのだ。
一方日本軍も、ミートキーナは第33軍の第18師団(菊・久留米)が守っているフーコン谷地(第18師団のフーコンからの転進命令は1944年(昭和18年)8月)や、第56師団(龍・久留米)の守る中国雲南防衛の要の場所だった。
日本軍の守備隊は、第18師団(菊・久留米)隷下の歩兵第114聯隊(福岡)だったが、手元の兵は少なかった。
歩兵連隊は平時編成でも1500名だが、700名しか残っていなかった。しかしこの聯隊は小倉の編成で筑豊の炭鉱従事者が多かったらしく、堅固な坑道を作り頑強に抗戦した。
米中軍は、空挺部隊の飛行場占領後、中国兵にアメリカ式の武装と訓練を施した「中国軍新編第1軍」(インド遠征軍)とアメリカの「ガラハット」部隊(第5307混同部隊)、カチン人ゲリラで、フーコン谷地方面から進出し攻撃して来た。
日本軍も第56師団(龍・久留米)から水上源蔵少将率いる第56歩兵団の増援部隊(実態は少数だったらしい)が到着し抗戦するも、圧倒的な戦力差の前に苦戦。
一方フーコン谷地のモウガン地区では、第18師団を退却させたため米中軍に淘汰されつつあった。
6~7月の間、ミートキーナ守備隊は頑強に抵抗を続けていたが、モウガンが攻略され英第36師団が南下して来たため遂に力尽きた。
8月2日、緬甸(ビルマ)方面軍司令部のミートキーナ「死守命令」に対し、水上少将は生き残った日本兵に脱出を命じ、兵は敵陣を突破して脱出。その後の8月3日、ミートキーナは米中軍により陥落した。
水上少将は命令違反の責任をとって自決している。
<雲南の戦い 垃孟・謄越 第56師団(龍・久留米)>
1944年(昭和19年)5月、中国国民党軍(重慶軍)が再びビルマへ出兵して来た。
5月11日には、保山に在った中国国民革命軍雲南遠征軍が怒江(サルウィン河)を渡った。対岸(西岸)には第33軍隷下の第56師団(龍・久留米)の守備隊が守っていた。
第56師団(龍・久留米)は、福岡、佐賀、長崎を徴兵区とした九州の師団だ。
英米戦開戦当時は、同じ九州の師団である第18師団(菊・久留米)と共に、マレー作戦を担当する第25軍の隷下にあった。そのマレー戦の早期の終結に伴い、1942年(昭和17年)3月第15軍に編入されビルマの地を踏み、5月にはラシオを攻略して援蒋ルートであるビルマルートを遮断していた。
その後、1943年(昭和18年)3月の緬甸(ビルマ)方面軍創設に伴い、第33軍に再編成されたが、旧第15軍時代から引き続きビルマ北東部、中国雲南省との国境警備を担当していた。
主力は歩兵第113聯隊(福岡)、歩兵第146聯隊(大村)、歩兵第148聯隊(久留米)。
このうちの歩兵第146聯隊(大村)を主力として編成された坂口支隊は、英米戦開戦当時はフィリピンのミンダナオ島ダバオやボルネオ攻略戦に参加後、第16軍に編入され蘭印(現インドネシア)攻略戦を戦った後、1942年(昭和17年)4月に第56師団に復帰していた。
拉孟には歩兵第113聯隊(福岡)の主力1300名が、龍陵には歩兵第113聯隊(福岡)のうち第3大隊約500名が、謄越には歩兵第148聯隊(久留米)の2800名が守備に就いていた。
しかし中国雲南遠征軍は16個師団と圧倒的な兵力で、拉孟に20,000人、謄越に49,000人に上る数で守備隊を包囲した。
インパール作戦失敗後の緬甸(ビルマ)方面軍の作戦指導は、ビルマー中国(緬支)国境の雲南の怒西地区(怒江ーサルウィン河西岸)に於いて、連合国軍(英米中軍)の「印支地上連絡企図」(援蒋ルート「レド公路」「ビルマルート」)の遮断を指向していた。
このため軍の再編成を行い、ビルマ南西沿岸(ベンガル湾岸)の防衛に当たっていた第2師団(勇・仙台)、および新たにビルマに増加された第49師団(狼・京城)の一部(吉田部隊:歩兵第168聯隊・京城)を第33軍に増強することになった。
第49師団(狼・京城)の主力は、方面軍直轄部隊となり、ニュアンレビン、ペグー、チャクト―、モールメン(現モウラミャイン)など現在のバゴー地方域やモン州の各地に配置された。
また第49師団林部隊(歩兵第153聯隊・京城)は第28軍指揮下に入って、9月3日ビルマ中部のエナンジョン(油田地帯)に配置とされた。
一方、従来第33軍下にあり、フーコン作戦末期に第18師団(菊・久留米)の退却と雲南方面への転進を援護する第53師団(安・京都)は、インドウに転進後第15軍指揮下となり、独立混成第24旅団はテナセリウム(現モン州やタニンダーリ地方域)へ転進とされた。
これにより、1944年7月16日から第33軍は、第2師団(勇・仙台)と第56師団(龍・久留米)を基幹とする兵力で、怒西地区の守備に当たることになった。
第2師団(勇・仙台)は、1888年創設の古豪の師団で、「夜襲の仙台師団」として有名だったらしい。
1931年(昭和6年)の満州事変にも参加し、対英米戦開戦時は蘭印作戦担当の第16軍に属し、その後ガダルカナルで7000名の損害を出す戦いを経て、マレー・シンガポールの警備にあたっていた。
1944年1月15日第28軍に編入され、1943年(昭和18年)10月、貨物列車でシンガポールを発ちバンコクへ。モールメン(現モウラミャイン)から列車で北上し、マンダレーからインドウへ到着。その間の鉄道沿線沿線は一面の焼野が原だったらしい。
その後、ビルマ南西沿岸(ベンガル湾岸)の防衛に当たっていた。
主力の歩兵団は、歩兵第4聯隊(仙台)、歩兵第16聯隊(新発田)、歩兵第29聯隊(若松)。
しかし5月の時点でフーコン方面の戦況はひっ迫し、6月末には雲南の龍陵地区に於いて、中国雲南遠征軍第11集団軍の攻勢に対峙していた第56師団の守備も限界に達していた。
このため第56師団主力は芒市付近に後退する。
この間、垃孟、謄越の各守備隊は、圧倒的な兵力の雲南遠征軍の重囲下で孤軍奮戦を続けていた。
第33軍は、フーコン方面を失うことでミートキーナ守備隊に対する米中軍(中国インド遠征軍新編第1軍と米軍のスチルウェル軍)の攻勢が更に強まり、此処でも戦況が差し迫っていることは認識していたが、軍の主力を怒西地区に集結して、中国雲南遠征軍の速やかな撃滅を図り、「印支連絡路」(援蒋ルートのレド公路ービルマルート)を遮断する「断作戦」を発令しようとしていた。
このためには作戦発令まで、第56師団は現在の態勢を確保して、雲南遠征軍に対し持久することと、ミートキーナは拠点を確保し、米中軍(中国インド遠征軍)と中国雲南遠征軍の連絡を遮断することが必要だった。
さらにフーコンで戦っていた第18師団(菊・久留米)を撤収させ、雲南のナンカンへの転進を予定していた。これは第2師団がビルマ南西沿岸より転進してナンカン集結後、第18師団とナンカンの守備を交代したのち、第2師団がそのまま一気に芒市付近に集結することになっていた。
雲南遠征軍を撃破したのち、返す刀で第2師団、第18師団主力を以て、米中軍の中国新編第1軍(2個師団)、第6軍(3個師団)に攻勢を掛け、ミートキーナ、バーモ守備隊を救出する作戦だった。
しかし新たな作戦の準備中の8月3日に、ミートキーナは米中軍によって陥落した。
第33軍は「断作戦」の開始を9月上旬と予定していたが、その間雲南遠征軍の重囲下で連日の猛攻に耐えていた垃孟、謄越、龍陵の各守備隊からの悲痛な報告電報が相次いだ。
8月20日、謄越守備隊から「将兵は隻眼、隻手、隻脚、何れも戦闘に参加し得る者は志願し、仇敵撃滅を誓いあり。現下の戦況、何も申し上ぐることなし」
8月23日、垃孟守備隊から「敵の猛攻に対し、守備隊は死守敢闘するも、大部の兵は不具者となれり。今や守兵の大部は、片手、片足なるも、全力を奮って死守敢闘、残る陣地を確保しあり」
8月23日、龍陵守備隊から「各部隊は奮戦これ努めあるも、現状のままでは、今二日を持久しうるに過ぎず」
このため第33軍は、「軍は速やかに龍陵付近の敵を撃破して怒江の線に進出し、垃孟、謄越各守備隊を救援せんとす。攻撃開始は9月3日払暁とす」との軍命令を下達した。
第33軍が芒市付近で第56師団と第2師団の集結を図っている間にも、雲南遠征軍は兵力を増強していた。
第56師団は、龍陵の包囲を破った後、垃孟まで突貫突破するので、第2師団は残敵を掃討して後方を警備しながら続行させよと、第33軍に意見具申する。
垃孟、謄越、龍陵の各守備隊は、いずれも第56師団の兵だったのだ。
第33軍は、一旦はこの意見を認めなかったが、事態が急迫しているのを認め、第56師団の先行突入を許可した。
8月26日夜、第56師団は攻勢を開始。
龍陵南地区で頑強に抵抗する雲南遠征軍新編第39師団主力を撃破。次いで第76師団の来攻を撃退しながら攻撃を続行。
8月30日、第33軍は第2師団も龍陵作戦に参加させた。
しかし雲南遠征軍も新鋭の第200師団を龍陵に急派し、両軍の激しい戦闘中、9月8日朝、垃孟守備隊(1300名)の全滅を知らされた。
更なる第56師団の猛攻で、雲南遠征軍第11集団軍はようやく守勢に立った。しかし1942年(昭和17年)5月以来、雲南地域の守備に就いて、地理や敵情を把握している第56師団の攻勢は進展したが、全くの不案内な地理、環境下で戦う第2師団方面は遅滞していた。
その最中、9月14日、謄越守備隊(2800名)も最後の突撃を行って、全滅した。
第33軍はこの報を聴き、今回の攻勢で中国雲南遠征軍に甚大な損害を与え得たが、すでに彼我兵力の差は大きく、引き続き攻勢を継続すれば第33軍の戦力が消耗し尽くすと判断。今回の作戦の主目的は、垃孟、謄越守備隊の救出であったが、果たされぬまま攻撃打ち切りを命令した。
1944年(昭和19年)9月16日、第2師団の歩兵第16聯隊(新発田)と歩兵第29聯隊(若松)が龍陵の守備に就き、以後11月3日、第33軍からの撤退命令に接するまでここを死守した。