歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インドネシア・ジャワ島ひとり旅(2017年) <6> まだまだ2日目 ジャカルタ発祥の地「コタ地区」に行ってみる。 

<2日目ー3> 

2017年 2月22日 水曜日 ジャカルタは曇り。暑い。31度。

 

ジャカルタ発祥の地「コタKOTA歴史地区」へ行く>
明日の鉄道のボーディングパスを取ろうと、ガンビル駅に行ったが、何と取れるのは「乗車当日のみ」と聞かされ、落胆しながらバスウェイでホテルまで帰って来た。

両替したお金を部屋のセーフティボックスに入れ、午後からの雨に備えて折り畳み傘を持ってまた出掛けてきた。

 

ジャラン・タムリンの歩道から歩道橋を通って、通りの中央分離帯にあるバスウェイのサリナ駅に行く。ここから先ほど帰って来たのとは逆方向のバスに乗って、ハルモニを過ぎて終点のコタ(Kota)駅まで行くつもりだ。

ジャラン・タムリンの中央分離帯にあるバスウェイのサリナ駅

サリナ駅 左が切符の販売窓口、右が自動改札

この北にあるコタ(KOTA)と南のブロックМ(BlokМ)の間を走る「M1」線が、2004年2月1日から運行を開始したトランス・ジャカルタ(Trans Jakartaバスウェイ)の最初の路線だったようだ。

サリナからコタ(Kota)までは8駅だ。ジャラン・タムリン沿いは、インドネシアの中央銀行や独立記念塔(モナス)が立っているムルデカ広場、大統領官邸などが並んでいる。ジャカルタだけでなくインドネシアの中心地域だ。

 

コタ(Kota)駅は「M1」路線のバスウェイの終点なので、サリナ駅方面から来たバスは折り返し運転のため駅のプラットフォームの周りをぐるっとUターンして、向きを変えてから停まる。

この為真ん中にある駅のプラットフォームに降りると、出口は螺旋状の通路で一旦地下に下がる。そこから小さな土産物屋が並んでいる地下鉄浅草駅の様な雰囲気の地下道をとおり、バスが走って来た道路の下を横断して、反対側の旧インドネシア中央銀行の建物であった「銀行博物館(Museum Bank of Indonesia))の前の歩道にある出口に出て来る。


このコタ(KOTA)地区はオランダ統治時代、ジャカルタがバタビア(Batavia)と呼ばれていた時代の中心地で、コタ(KOTA)とはインドネシア語で「街」の意味だ。
駅を出て北に進むとファタヒラ広場(Taman Fatahillah)に出る。
この石畳の広場は旧バタビアの中心地だが、いまは大道芸人が出たり、風船を売り歩く人、風船を持ちながら変形自転車で走り回る観光客などで賑わっている。

広場に面して建つ、今はジャカルタ歴史博物館(Museum Sejarah Jakarta)となっている白い2階建ての建物は旧バタビア市庁舎で、遠足か社会科見学で来た制服を着た子供達が沢山訪れていた。

コタ歴史地区の中心「ファタヒラ広場」

旧バタビア市庁舎(現ジャカルタ歴史博物館)


<カフェ・バタビアで優雅な昼食⁈>

昼食が未だだったので、これも広場に面して1805年に建てられたというコロニアル様式の2階建てで、一目で「高そう‼︎」(笑)と思える「カフェ・バタビア」(Café Batavia)で昼食を摂ることにした。

広場に面して建つ「カフェ・バタビア」

中に入ると此処を訪れた著名人の写真が所狭しと飾られている。
ムスリムの帽子、黒いぺチ(Peci)を被ったスカルノ初代大統領の肖像も交じっている。

店内は木造のシックな作りだ。客も殆どが欧米人かインドネシア人の富裕層らしき人達。場違いな私も2階に上がると、窓際の席に案内された。
サンドウィッチとアボガドジュースをオーダー。これでRp.205,700(約1,745円)。予想通り高い!

しかし、アヤム(ayam チキン)と卵のサンドウィッチは意外に美味しい。全部食べてしまった。日本では珍しいアボガドジュースも、甘く、そのねっとりした食感が良い。

初代大統領スカルノなど、此処を訪れた著名人の顔写真が、数多く飾られている。

アヤム(ayam チキン)と卵のサンドウィッチ

アボガドジュース

<歴史博物館でジャカルタ=バタビアの歴史を辿る>

旧バタビア市庁舎の歴史博物館に入ってみる。Rp5,000(約42円)。
木造で天井の高い館内は、展示物が無造作に置かれている。
なにか昔行ったインドのカルカッタ(Calcutta)にあったビクトリア記念堂(Victoria Memorial Hall)も、そんな感じだったのを思い出した。

ビクトリア記念堂は、フーグリ河の東岸に広がるマイダン公園の中に建つ、ドームを持った壮麗な大理石作りの建物だが、内部に入ると、当時のインドの歴史や文化、生活などを系統だって展示するという意図も興味も無い様で、総督や高級官僚の肖像画や生活用具がただ「誇り」ならぬ「埃」にまみれたまま雑然と並んでいるだけだった。確かにインド植民地時代の、英国女王や総督のメモリアルだったのだろう。

はじめこのジャカルタ歴史博物館もどこか似た様な印象を受けた。植民地を放棄した後のオランダ植民地政府の抜け殻の様な。
しかし続けて見て行くと、此処には自国の歴史を伝えたいというインドネシア政府の意図が見え、ジオラマ風の展示で自国の歴史を紹介していた。
私も知らなかったバタビア時代のインドネシアの歴史を、改めて見直す機会になった。

館内は写真撮影も規制が無いのか、見学の人も展示物の前で互いにポーズを取って写真を撮り合ったりしている。私も他の観光客にお願いして一枚撮って貰った。

小学生の団体や若い人が多く訪れていた。

12世紀から16世紀ごろ今のジャカルタは、ヒンドゥー教の王国「パジャジャラン王国」の外港として「スンダ・クラパ」(Sunda Kelapa)と呼ばれていたらしい。
これは、主にジャワ島西部に住んでいるスンダ人の「クラバ(Kelapa)」=インドネシア語で「ココナッツ」の意味だ。

1527年イスラム教王国チルボンのファタヒラ王(Fathahillah)が此処を占領して、名前を「ジャヤカルタ」(Djajakarta「偉大なる勝利」)と改名。

いま居るファタヒラ広場の名前は、このファタヒラ王から来ているらしい。

1619年オランダ東インド会社(Verenigde Ost-Indische Compagnie 略称VOC)の総督が、ジャワ島の北西にあったバンデン王国からこの地を租借し、バタビア要塞を築いて交易の本拠地とし、この地をバタビアと呼び始めた。バタビア(Batavia)とは、本国オランダ地方の古称らしい。

因みに豊臣政権、徳川政権が東南アジア一帯で行っていた朱印船貿易の時代、当時の日本では「ジャガタラ」と呼ばれたとのこと。

ジャワ海に開かれた旧バタビア城塞と港の古地図

その後、VOCの時代や1799年VOC解散後、一時本国オランダがナポレオン戦争でフランスに占領されたためフランスの衛星国のバタビア共和国となったり、英国の植民地にされたりするが、1824年の英蘭条約でマラッカ海峡を挟んでマレー半島を英国領、インドネシアをオランダ領と国境線が引かれて、インドネシアは本格的に「オランダ領東インド」(Hindia Belanda)としてオランダ本国が統治していくことになった。
その時の総督府所在地はバイテンゾルフ(Buitenzorg)と呼ばれた現在のボゴール(Bogor)にあったが、実質的な機能はここバタビアが担っていたらしい。

このバタビアの呼称は、1942年ジャワ島を占領した日本軍によって「ジャカルタ」と変更されるまで続き、「ジャカルタ」の名は1949年のインドネシア独立承認後も新政府によって引き続き使用されることになって現在に至っている。
またバイテンゾルフが、現地の呼称「ボゴール」に戻されたのも日本の軍政下だった。

ここバタビアが現在のジャカルタの始まりだった。
更に北のバタビア要塞跡や旧港(Sunda Kelapa)まで行ってみようかとも思ったが、午前中から炎天下を歩いて疲れているのでバスウェイに乗って帰ることする。


<現地の人と大汗をかいて、バスウェイに乗る>
バスウェイの駅までの道はオシャレなカフェが並んでいるが、顔を茶色に塗って銅像の様にジッと動かずにいたり、ドレスを着込んで何かのキャラクターを真似たりする大道芸人が沢山いる。
中でも一本の細い棒を手に持って、胡座をかいた男が宙に浮いているのを見て、思わず足を止めて、どうなっているんだろうとしげしげと眺めては、写真まで撮ってしまった。前に置いてある小さな蓋の開いたトランクに硬貨を入れて来た。

バスウェイのコタ駅が見えたところで、ピンクのジルバブ(Jilbab ヒジャブHijabのインドネシア名)を被った20歳くらいの女性、その後ろに緑のジルバブに眼鏡を掛けた10歳位の女の子、その後ろにピンクのトランクを引いたお父さんらしい50歳位の男性が、バスがUターンする通路を歩いているのを見つけた。
あれっ?!バスウェイの駅の出口を出る時は、地下を潜ったりあんなに遠回りしたけど、現地の人は近道を知ってるんだと思い、その後に続いて行くことにした。

ジルバブを被ったお姉さんを先頭にした親子の後をついて行くが、そこはバスがUターンする通路なので、ひっきりなしに来るバスの横をスレスレに通って進むと、次は私の胸より高いプラットフォームでバスを待つ人が上から怪訝な顔で私たちを見下ろしている。
しかしバスの運転手も、駅の職員も、プラットフォームの乗客も誰も私たちを咎めたりする様子はない。
私は次第に、早く此処から出た方が良さそうだと気付き、速足で彼女らを追い越し、私が偵察隊の様に先を進んで行ったが、結局駅の周りを一周しただけで期待の入り口は見つからない。
その時、後ろに居たピンクのジルバブの女性が「あそこに入り口が‼︎」と言って指差したのは、通りを渡った先の、私が此処に到着した時に地下から地上に出て来た銀行博物館前の出入口だった。

プラットフォームに立ち、漸く来た「ブロックM」行きのバスに乗り込むと、向かいの席に先ほどの親子が座った。お父さんが私に、着ていたシャツの汗が凄いと言いう様な身振りをすると、娘さん達も一緒に、問わず語りに大変だった〜とお互いに微笑み合う。彼女達はガンビル駅への乗換え駅「ハルモニ」で、手を振りながら下車して行った。

流石に疲れてしまったので、サリナで降り、サリナデパートの下にあるスーパーマーケットで明日のパンとジュースを買って帰る。Rp.58,970(約500円)


ホテルに戻って汗だくのシャツを脱ぎ、シャワーしてちょっとの間とベッドで横になったら、知らぬうちに寝込んでしまった。
夜中に起き上がって外を見ると、予報より遅い今になって雷が鳴り始めている。窓からはモナスの天辺の炎のモニュメントが昨夜より鮮やかに赤く光っている。
これから雨になる様なので、外に出るのは諦めて、明日のために買って来たパンを食べようかな。
明日は、今日出来なかったボーディングパスを取り、ジャカルタからジョグジャカルタまで8時間弱の鉄道での移動なので、早く寝なくっちゃ。