歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インドネシア・ジャワ島ひとり旅(2017年) <22> まだまだまだ8日目 ジョグジャ最後の日。やっぱりマッサージでしょう。

<8日目ー3> 

2017年 2月28日 火曜日 ジョグジャカルタ曇り のち雨 27度。


フレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburgで、ジオラマを見ながらインドネシアの歩んできた苦難の歴史を学んでいた。

フレデブルク要塞博物館Benteng Vredeburgでインドネシアの歴史を学んでいる(続き)>

フレデブルグ要塞博物館を見て回っている。

インドネシアが独立の準備を進めていた間、1942年3月よりインドネシアに軍政を敷いていた日本軍が、連合国軍に降伏する事態となった。

 

1945年8月17日、連合軍の了解を得ることなく、ジャカルタに於いて、スカルノSoekarnoがハッタHattaと共に、「インドネシア民族の名において aras nama bangas Indonesia」と「インドネシア独立宣言 Proklamasi Lemerdekaan Indonesia」を発表。スカルノを首班とするインドネシア共和国の成立を宣言した。

ここにインドネシア共和国が誕生したが、実はここからが更なる苦難の始まりだった。
続いて、8月22日、共和国の治安維持を図る目的で「人民治安団」(Badan keamanan Rakyat)を結成。
10月5日には、10月になって旧オランダ領東インドに進駐して来たイギリス軍、オランダ軍へ対抗するための軍事組織「人民治安軍」(Tentara Keamanan Rekyat)が組織された。このBKRおよびTKRが後のインドネシア国軍(Tentara Nasional Indonesia)のルーツとなった。

展示「インドネシア国軍(TENTARA)形成の経緯」

降伏した日本軍は連合国軍から、東南アジアの占領地域を現状維持のまま進駐してくる連合国軍に引き渡すよう命令されており、特にインドネシア人の独立派への武器の引き渡しは厳禁されていた。

しかし一部の日本軍部隊は、兵器の集積庫を開放し、小銃、野砲、弾薬、車両、食料などが独立派の手に渡った。
また3000名以上の日本兵が、インドネシア独立派に参加した。

展示「1946年に、日本軍から鹵獲された三菱98式飛行機」

このころ連合国軍では、旧オランダ領東インドの管轄がアメリカ軍からイギリス軍に変更になったため、イギリス軍部隊が東インドに進駐して来た。

ジャワ島、スマトラ島はイギリス軍の指揮下、ティモール島、ボルネオ島(カリマンタン)、セレベス島(スラウェジ)、アンボンはオーストラリア軍の占領下に入った。

1945年9月29日、イギリス軍の第一陣がジャカルタに上陸。
10月1日オランダ領東インド連合軍(AFNEI)司令部がジャカルタに置かれる。10月末までにAFNEI管下のイギリス軍が、ジャカルタ、バンドゥン、スラバヤ、スマランに配置。
この中のオランダ軍が現地人に対し、殺人、誘拐、放火などの破壊活動を行って現地民の反発を買っていた。

1945年10月20日、旧オランダ植民地政府の副総督ファン・モークが亡命先からジャカルタに到着し、10月23日よりインドネシア共和国の初代大統領スカルノ、副大統領ハッタと会見。

当事者のインドネシア共和国と旧宗主国オランダ、仲介役のイギリスを加えた三者間交渉が始まった。
この間の10月25日、スラバヤに上陸したイギリス軍部隊が、民衆に武器の提出を求めたため、これに反発した独立派の人々と10月28日から30日にかけ衝突。この後各地で衝突が頻発した。

 

1946年1月4日、インドネシア共和国政府は、治安の悪化から首都をジャカルタからジョグジャカルタに移す。

一方オランダ軍部隊が続々と増加し12万人規模となっており、インドネシア側との本格的な衝突が懸念されてきた。
この中で、1946年11月12日、インドネシア共和国とオランダの間で停戦協定(リンガジャティ協定)が成立した。
内容は、ジャワ、スマトラ、マドゥラ島(モルッカ諸島)をインドネシア共和国の勢力下にあると認め、連邦国家樹立を目指すとしたものだった。
これを受け、仲介役だったイギリス軍は11月中にインドネシアからの撤退を完了する。

 

1947年1月24日、これを待っていたかのように、オランダ軍は東部ジャワのクリアンとシドアルジョを攻撃。6月28日、オランダ軍はインドネシア全域で進軍し、スラバヤ、共和国の臨時首都だったジョグジャカルタを空爆する。

7月21日、オランダ軍、ジャワ、スマトラ、マドゥラ島(モルッカ諸島)などインドネシア共和国内と認めた地域へも全面攻撃を開始。
ジャカルタ、チルボン、スマトラのメダン、パレンバンなどを占領。
この間オランダ軍は、ゲリラ討伐として農村部の住民の大量虐殺などを行っている。

8月4日、この事態に国連が介入。停戦交渉が始まった。
しかしこの間も、オランダ軍は占領地域の土侯国に自らの傀儡国家や自治領を作っていった。
1948年1月17日、停戦協定(レンヴィル Renville協定)が成立。
この結果、インドネシア共和国領とされたのは、ジャワ島中部、西端部、マドゥラ島のみであった。

1948年9月18日、PKI(インドネシア共産党)の影響下にある部隊が、ジャワ島東部のスディウンでオランダ植民地政府機関を襲撃。
これは直ぐに制圧されたが、12月19日、再びオランダ軍による全面攻撃開始。
共和国側は、スマトラに臨時政府を置き徹底抗戦を宣言し、組織的な抵抗を開始。各地でゲリラ戦を展開。

1948年12月24日、国連はオランダに、スカルノやハッタなど共和国指導者の釈放を要求する決議を採択。
国際世論は、植民地主義に固執するオランダを非難。アメリカは当時ヨーロッパに対して行っていた経済援助(マーシャルプラン)の、オランダへの供与の停止を通告。
同時にオランダは、インドネシアにおける過大な軍事費支出が、第2次大戦で疲弊したオランダ経済では耐えられなくなっていた。

1949年8月23日から11月2日まで、オランダの首都ハーグで、インドネシア問題を解決するための「ハーグ円卓会議」が開かれる。
この結果、①諸邦連立の「インドネシア連邦共和国」の成立。②オランダは無条件で、インドネシアの主権を「インドネシア連邦共和国」に移譲する。③「インドネシア連邦共和国」は、「オランダ=インドネシア連合」に参加し、オランダ女王をその元首とする。④「インドネシア連邦共和国」の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する。などとなっていた。
同時に、約11億3000万ドルもの旧植民地政府の債務を、インドネシア側が継承することも盛り込まれていた。

この「インドネシア連邦共和国」の政府は、ジャワ島などを支配するインドネシア共和国の他、オランダが作った傀儡国家をも含む連立政府だった。しかし旧土侯国の傀儡国家は、強力な指導力を求め順次ジャカルタの共和国政府に権力を移譲していった。
この結果、1950年8月15日、ついに単一のインドネシア共和国の樹立が宣言されることとなった。
この間実に1945年8月17日の「独立宣言」から5年の歳月と、多くの人の犠牲が必要だった。

インドネシア独立のジオラマ

インドネシアは、此処に来るまで本当に紆余曲折があったんだと、心底思ってしまう。日本軍が降伏した後も、日本の兵の一部はインドネシア独立戦争に参加し、命を落とした方々も多い。
ジオラマの人形を見ながらも、考えてしまう。
此処にも高校生や若者が来ていて、スマホで写真を撮りあっている。私も彼らを撮ってやりながら、自分の写真も撮って貰う。

 


<ジョグジャカルタ最後の日で、初めてのマッサージ>

12:30過ぎ、最初の日も入ったマリオボロ・モールのマクドナルドに入り、ダブルチーズバーガーを食べる。今回はアップルパイも食べた。セットはRp.42,500(約360円)、アップルパイはRp.10,000(約85円)。

ホテルに帰ろうとJL Dayenに入ると、まだ盛んにベチャの声が掛かる。ポツ、ポツっと雨粒が落ちてくる。空は既に黒い雲が覆って来ている。

本降りになるのが早いか、私が早いかと思って速足で歩き、何とか濡れないうちにホテルに飛び込んだ。
530号室の部屋に上がって手を洗っていると、窓の外のテラスに雨粒が当たる甲高い音がして、ザッーと降り始めた。

外は雨季の激しい雨になってきた。

午後3時過ぎからホテル最上階にあるマッサージ室で、初めてのマッサージを受ける。
インドネシアではオイルマッサージだ。

パンツ1枚になって施術台にうつ伏せで横になる。女性のセラピストが身体にオイルを塗って、手足の筋肉に沿って指を滑らせて行く。
本来気持ちが良いのだが、久しぶりなのと、連日動き回っているので、筋肉が痛い!
セラピストが手を滑らすたびに「痛い!」「痛い!」で、セラピストの人には申し訳ない様だ。
90分間で、Rp.295,000(約2,500円)、チップRp.50,000(約425円)。
部屋に戻ってシャワーを浴びる。

明日はいよいよブロモ山へ向けて出だ。明日はまだ麓に行くだけだが、それでも車で7~8時間位掛かるらしい。

マッサージのメニュー