<4日目―10>
2017年 5月25日 木曜日 モウラミャイン 晴れのち雨 暑い 36度。
モウラミャインを南下して、タンビュッザヤの町を巡っている。
しかし、何故日本はビルマに進攻したのだろう。余りに多くの犠牲を出しながら、何故ビルマを占領しようと考えたのだろう。
のちに日本軍がイギリス(英)領ビルマ(British Burma)に進攻するまでの経緯を考えている。
<М作戦(フィリピン作戦) Battle of the Philippines 1941年(昭和16年)12/8~1942年(昭和17年)6/9>
「M作戦」フィリピン作戦の主要な目的は、ルソン島飛行場の確保と米航空戦力の撃滅、ミンダナオ島ダバオ、ルソン島のマニラの占領だった。
主な参加兵力は、第14軍の第16師団(垣・京都)、第48師団(海・海南島/台湾)、第65旅団。第16軍直轄の坂口支隊。
フィリピンは1899年以降アメリカの植民地になっている。
1898年、それまで植民地支配を行って来たスペインがアメリカと戦争する最中、フィリピンは一時的に独立を宣言するが、1898年のパリ条約でフィリピンの統治権がアメリカ合衆国に2,000万ドルで譲渡されると、アメリカは独立派を武力鎮圧し、フィリピンを植民地としていた。
ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)大将は、そのフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍司令官だった。
日本は、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領して、極東に展開するアメリカ軍の根拠地を奪う作戦であった。
1941年12月8日、日本海軍の陸上攻撃機はルソン島のクラーク空軍基地を空襲。
12月22日、第14軍主力の第16師団(垣・京都)、第48師団(海・海南島)がルソン島に上陸した。
1942年(昭和17年)1月2日、首都マニラを占領。
しかし米軍が立て籠もる、マニラ湾を挟んでマニラの対岸にあたるバターン半島(Bataan Peninsula)への第一次攻撃に失敗し、4月に攻撃を再開して、最後に米軍が立て籠もるコレヒドール島(Island Corregidor)占領までに150日もかかってしまった。
<その他の作戦経緯>
「C作戦」香港作戦
援蒋ルートの一角、英国極東政策の根拠地である香港島の攻略を目的とした。戦力は、支那派遣軍の第23軍隷下の第38師団((沼・名古屋)と、帝国陸軍最大の重砲兵団である第一砲兵隊。
1941年12月9日、第38師団により英領香港への攻撃が開始。
12月11日、イギリス軍、九龍半島から香港島へ撤退。
12月18日から日本軍香港島上陸、12月25日占領。
12月8日、北太平洋米領ウェーク島攻略
アメリカ領ウェーク島は中部太平洋における米軍の重要拠点だったため、12月11日、および12月21日の攻撃で、23日占領。
「G作戦」グアム作戦
グアム島を攻略して南洋諸島方面のアメリカ軍の脅威を封殺するため発動された作戦だが、戦力は、主に海軍の第四艦隊と、陸軍は大本営直轄部隊の南海支隊。
1941年12月10日、アメリカ領グアム島へ、南海支隊と海軍陸戦隊が上陸。同日中に占領した。
<「H作戦」蘭領印度作戦 ジャワ作戦>
「南方作戦」の最終目標であった蘭印資源地帯への作戦は、以下の様に始まった。
1939年、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発し、1940年、オランダ本国はドイツに占領される。
しかし東インド(現インドネシア)のオランダ植民地政府は、1940年5月にイギリスに亡命した「亡命政府」の統治下で、「対日ABCD包囲網」に加わっていた。
1941年12月8日、日本が対アメリカ、イギリスに対し宣戦布告するとともに、日本軍はイギリス領マレー半島のコタバルに上陸。
1941年12月10日オランダ「亡命政府」は、日本に対し、日本が米英に宣戦布告したことは、米英と不可分の関係にあるオランダと戦争状態が存在するに到ったと通告してきた。(これに対し、日本の対オランダに対する宣戦布告は1942年の1月12日)
今村均陸軍中将率いる陸軍第16軍(主力は第2師団、坂口支隊)と、のちに支那派遣軍の第23軍から1942年1月4日に第16軍の戦闘序列に入った第38師団(沼・名古屋)と、第14軍から第16軍の戦闘序列に入った第48師団(海・海南島)に、「蘭印作戦(H作戦)」が発動された。
最初は、<「B作戦」英領ボルネオ作戦>からだった。目的は、ボルネオ島(Borneo 現カリマンタン Pulau Kalimantan)タカラン(Takaran)の油田の確保と、航空基地の占領だった。
1942年(昭和17年)1月11日、第16軍隷下の坂口支隊と海軍陸戦隊による、ボルネオ島タカランへの攻撃。1月13日オランダ軍降伏。
次いでセレベス島(Celebes 現スラウェシSulawesi)メナド(Manado)へも陸軍支隊と海軍陸戦隊が攻撃、ランゴアン飛行場には海軍の空挺部隊が空挺降下を行っている。
1月31日にはモルッカ諸島の天然の良港であるアンボン(Ambon)を占領。
2月14日には、大油田地帯であるスマトラ島(Pulau Sumatera)パレンバン(Palemban)へ、陸軍第一挺身団(空挺部隊)329名が空挺降下を行って、油田地帯を占領。パレンバンはムシ河の河口から約100Km内陸に在り、無傷での油田確保のため空挺作戦が取られたらしい。
この時の挺身飛行隊の直掩機は、「加藤隼戦闘機隊」で知られる陸軍飛行第64戦隊他だった。
オランダ領東インドの当時(1939年)の年間石油生産量は約800万トン、当時日本の年間需要量は約500万トンであり、この油田の確保は当時の日本にとって死活問題だっただろう。この後、日本海軍はボルネオの油田、陸軍はスマトラの油田を保有することになる。
1942年3月1日、第16軍の主力がジャワ島上陸、8日には第48師団主力がスラバヤ攻略、10日バタビア(現ジャカルタ)占領。
3月7日にはバンドン要塞攻撃、12日にオランダ領東インドの連合軍の全面降伏。
これによりオランダによる350年間の東インド支配が終了した。