<4日目ー2>
2018年 5月17日 木曜日 イスタンブールは晴れ 暑い。27度。
<ボスボラス海峡を渡ってアジア側へ行く>
スルタンアフメッド駅からトラムに乗って、エミノニュ駅で下車。金角湾の出口、ガラタ橋の側だ。桟橋からウスキュダル(Uskudar)行きのフェリー乗り場に行き、イスタンブール・カルトに20TLチャージしてから、対岸に渡る多くの乗客に交じって乗り込む。このフェリーは観光用ではなく、毎日ボスボラス海峡を渡って通勤や通学、商用に利用されている日常生活の足の様だ。
フェリーもイスタンブール・カルトで乗れる。ここも入場口の改札の機械にタッチだ。
丁度14:30発のフェリーに乗り込み、二階デッキの屋外の席に座る。ボスボラス海峡を渡りアジアの最西端に行って、また再びヨーロッパの最東端に帰ってくるつもりだ。
漸くイスタンブールに来た目的のひとつである、アジアからヨーロッパへの到達が実現する。
15年以上前に始めたひとり旅で、勤めの間の短い休暇を使っての途切れ途切れの旅だったが、韓国、中国、東南アジア諸国、ミャンマー、インドからパキスタンまで来た旅が、イランは中抜けのままだが、漸くヨーロッパに達した事になる。
特に1997年から2000年の足掛け4年掛けて、3度のインド旅行とパキスタンのラホール(Lahore)から中部の町ムルタン(Multan)まで行ったので、次の休暇こそは少し長く休みを取って、パキスタンのカラチ(Karachi)辺りから入って一旦ムルタンまで戻り、LMQロードを進んでクエッタ(Quetta)を通り、「タフタン(Taftan)=ミールジャーヴェ(Mirujave)」BORDERで国境を越え、イランのザヘーダン(Zahedan)、バム(Bam)へと進んでみようと計画していた。
ところが、その後暫らく会社の仕事が忙しくなり、なかなか長い休みが取り辛くなっていた。しかし、計画を諦めていた訳ではなく、仕事が一段落ついたらと常に思っていたのだ、あれが起きるまでは。
それは2007年10月に起きた、イランのバム(Bam)での武装組織による横浜国大生誘拐事件だった。バムの観光名所である「城塞遺跡を見物する」と言って出掛けた、23歳の学生が誘拐されたのだ。
昔の様にアフガニスタン経由でヨーロッパを目指せなくなった旅行者にとって、特に私のような旅行の素人にとっては、このルートは唯一残された道だった。
1999年南インドで出会った2人組の女性や、2000年インド=パキスタン国境で出会った欧米人の男性と日本の女性の2人組など、イスタンブールから来たと言う人たちはいずれもこのルートを通って来たと聞いていたので、ルート自体には特段の心配もしていなかった。
しかし、いつの間にかこの周辺も政治情勢や麻薬取引などで危険な地域になりつつあったのだ。この現実はショックだった。
私は一介の勤め人で、旅行に於いての特別なコネも技術も無い。この時点で、実質本当の意味での陸路でトルコまで行くのは困難だと諦めた。
その後、東南アジア諸国や中国、ヨーロッパの一部も回ったが、アジア大陸を横断してヨーロッパへ行くと言う夢は、中途半端なままだった。しかし今イスタンブールで、イランの中抜けで申し訳ないが、自分の中でのアジア横断は完結したような気がする。
これも、全てではないにしろ、いろんなことを曖昧のまま許容できる(してしまう(笑))様になった歳のせいかもしれない(笑)。
しかも今度は60代後半になって、イスタンブールに来たもうひとつの目的である、此処を出発点としてローマ(Roma)まで行こうとしているのだ。
<ウシュクダル・アジア最西端に着いた>
今日のボスボラス海峡は穏やかで、遠く丘の上に立つ2本のミナレットのスュレイマニエ・ジャーミー(Suleymaniye Camii)の姿が異国情緒を感じさせる。海の中に立つ「乙女の塔」(Kiz Kulesi)が間近に見える。フェリーは思ったより快速で、僅か15分で対岸のウシュクダルに着いた。
ウシュクダルと言えば、子供のころ流行った江利チエミが日本語で歌った「ウスクダラ」の歌で地名だけは馴染みがある。そんな地にはるばる来たんだなぁ。
上陸後、ウシュクダルの街を歩き回る。史跡らしいものは余り無く、ヨーロッパ側へ通勤する人のベッドタウン化しているのかもしれない。人が多いが観光客は殆ど居ない。市場を覗いたりして疲れたので、トルコに来て初めてマクドナルドに入る。
本当は各国のハンバーガーの食べ比べをしたかったが、流石にまだお腹は空いていない。カウンターの女性に「アップルパイ」を注文すると、えっ⁈この人何言ってるの?と近くにいた上司らしい若い男性に代わると、無いと。「パンケーキ」を頼むと、苦笑いしながらそれも無い。そしてカウンターの上にあったドーナツは如何ですかと指さされたので、それとコーヒーを頼む。
砂糖は?と聞かれたのでイエスと言って、紙コップに入ったコーヒーを持って席に着く。そうだクリームは?と思ってプラスティックの蓋を開けたら、既にクリームが入っていた。これがトルコ流なのかな。
昔韓国では、コーヒーを頼むとマグカップにスプーンが差したまま出て来たのを思い出す。あれはマクドナルドだけではなく、他の喫茶店でも同じだったので、あれも韓国流だったのだろうか。そう言えば、テグ大邱でチャーハンを頼んだ時、「キムチ抜きで」と言ったら、「この人、何言ってるの⁉」と怪訝そうな目で見られたし。
<シルケジで「クル・ファスリエ」を食べる>
再びフェリーに乗り込みエミノニュに戻る。
またトラムに乗ってシルケジ(Sirkeci)で下車。
シルケジ駅は、パリなどヨーロッパの都市とコンスタンチノープル(イスタンブール)を結んだ旧オリエント急行の終着駅で、今は修理中でネットが掛かっているが、立派な駅舎が建っている。
此処はビジネス街でもあり銀行も多く、そのATMでお金を降ろそうと考えた。
しかしAnkara Cd.の道路沿いに見つけたATMは、先客がいてなかなか終わらない。此処はトラムが歩道のギリギリのところを走るので、先客の後ろに付いて待つわけにも行かない。脇に避けたら、何処から現れたのか、年配の男性がどうぞ、どうぞと隣の店に案内する。あれっ?と思っていると、そこは小綺麗な小さなレストランで、先客はひと組しかいない。まだ16:30だが、夕飯を食べて行っても良いかとテーブルに座る。
メニューをもって来られても分からないので、長椅子に横に並んで食べている隣の先客を見る。初め男女かと思っていたが、よく見ると年配の男性が2人で、1人は小柄な人だった。2人とも同じ豆のスープを食べている。
これなら今食べても腹にもたれ無いだろうと、「Same, please.」と言って隣の料理を指す。
出て来たのはトルコ料理の「クル・ファスリエ」(Kuru Fasulye)と言う白インゲン豆の煮込み。他に白いピラウ(Pilav)、ヨーグルトにチャイを頼む。
インゲン豆の煮付けはなかなか美味い。後から来た客も同じ料理を頼んでいたので、この店の名物なのかもしれない。ヨーグルトも日本のようにさっぱりではなく、もっちりしていて、酸味も少ない。これはこれで美味い。
後で、サービスで良いよと言われたチャイはもっと美味しかった。
30TL。
シルケジからトラムでスルタンアフメッド駅に戻り、ランドリーで洗濯物を貰ってホテルに戻った。
結局ATMには寄らなかった。
イスタンブールは、20時まで明るい。
現在の4大心配ごと。
1、ホテルの予約キャンセルへの対応。
2、現金の不足。
3、iPhoneのバッテリーの消費が早い。
4、部屋にティッシュペーパーが無いので、手持ちして来たポケットティッシュが無くなりそうだ。