歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

インドネシア・ジャワ島ひとり旅(2017年) <3> まだ1日目 ジャカルタに到着したゾ!! 

<1日目ー2> 
2017年 2月21日 火曜日 インドネシア・ジャワ島 ジャカルタ

 

<インドネシア・ジャワ島(JAWA) 首都ジャカルタ(Jakarta)に到着>
夕暮れのジャカルタの空港に着いて、エアポートタクシーの後席に乗り込んだ。

車は空港を出ると高速道路に乗った。
暫らく走ったが、未だジャカルタJakarta名物のマチェッMacet(渋滞)は起きておらず、快調に飛ばす。
走りながらフロントシートの背越しに、中年のドライバーの男性に前方を行く車のライセンスプレートを指しながら、「Car in front、license plate, B is Jakarta?」 (「B」はジャカルタ?)と聞く。走っている車の多くの記号が「B」なので、そう聞いてみた。
すると、そうだと。
隣を追い抜いて行った車を見ながら、「What is D?」(Dは?)と聞くと、バンドゥン(Bandung)と答えてくれる。
そうか、車で行き来するくらいバンドゥンは近いのか。

バンドゥン(Bandung)はジャカルタから南東にある高原都市だ。しかし我々より前の世代では、1955年に「アジア・アフリカ会議」が開催された場所だという記憶が大きいだろう。
インドネシアのスカルノ(Soekarno)初代大統領が議長で、インドのネルー(Nehru)、中華人民共和国の周恩来、ビルマのウー・ヌー(U Nu)、エジプトのナセル(Nasser)、ガーナのエンクルマ(Nkrumah)など、第2次大戦後独立した国々の指導者がこぞって参加した会議だった。当時は米国とソ連による東西冷戦下だったので、新興国家による第三勢力の結集は、世界に新しい風が吹くような期待をもって迎えられただろう。
でも今回はバンドゥンには行けないんだよなぁ。

空港から高速道路でジャカルタ市内を目指す。


タクシーが高速道路を降りて一般道路に変わるころは、道路は文字どおり大渋滞になり、「マチェッMacet?」(渋滞?)と聞くと、「everyday!」と。
「大変だなぁ」とつぶやくと、「アンダ オラン ジュパン?Anda orang jepang? あなたは日本人?」とドラーバーが訊くので、「ヤー、サヤ オラン ジュパン。Ya, saya orang Jepang. ええ、私は日本人ですよ」などと、片言のインドネシア語で話してみる。
「ビサ バハサ インドネシア?Bisa Bahasa iIndonesia? インドネシア語話せるの?」と訊くので、でも本当に話せるのは「スディキットsedikit」(少し)なんだと言うと、でも「バグースbagus!」(良い!)だと言う。

車はジャカルタのメイン通りジャラン・タムリン(Jl.M.H.Thamrin)からジャラン・ワヒッ・ハシム(Jl.Wahid/Hasyim)に入って停まった。「ジャラン(Jalan)」は「通り」の意味だ。
此処はジャカルタの安宿エリアとして有名なジャラン・ジャクサ(Jl.Jaksa)地区だ。
ホテルに着いて降りる時、Rp.20,000(約170円)をチップとして渡す。
現地時間18:30、今日の宿ホテル・イビス・アルカディア(Ibis Arcadia)に到着。


<ホテル・イビス・アルカディア(Ibis Arcadia)に到着>

1階のロビーにあるレセプションReceptionで、パスポートと、日本でネットの「Booking.com」で予約した時の予約票を出す。でも日本語表記の画面を印刷してしまったので、分かるかなァ。
しかし、受付の女性がPCの画面を見たまま、首を傾げている。そしてbookingが出来ていないと言われる。
そんなはずはないと言うが、暫らく待つ。でも日本でBooking.comで予約した時、慣れないせいでサイトがきちんと終了しなかった様な記憶が脳裏を掠める。なにせ海外のホテルをネットで予約するなんて、初めての経験なので。

昔むかし行っていたひとり旅では、宿探しはいつも行き当たりばったりだった。
ガイドブックで凡その安宿街をチェックして置いて、バスや鉄道を降りるとバックパックを背負って徒歩で訪ね歩き、レセプションで「Is there room tonight?」や「Can I get a room?」などと声を掛ける。大概は部屋があったが、それでも申し訳なさそうに「Sorry,Full.」と言われたり、「Full!」と憐れみをもって冷笑されたりした。

ツンとした館内の刺激的な匂いがキツい。未だ現地の匂いに慣れていない。見るもの聞くもの色々な感覚の中で、匂いが一番異国に来たという実感が湧く。
初めてベトナムの、サイゴンから改称されて20年も経っていないホーチミンに着いた時の匂いや、インドのカルカッタに降りたった時のツーンとする匂い。

Receptionの女性が予約を調べている間カウンター前のベンチに座っていると、隣のマッサージルームの前で呼び込みをしていた、横に深いスリットの入った赤いチャイナドレスに似た服装の女性が、ニッコリ微笑んで勧誘に来る。「I have not checked in yet.」と、残念ながらcheck inが済んでいないんだと断る。

暫らくしてReceptionの女性が、やはりbookingが無い様なので、再bookingしますと言って、予約した時と同じ条件、同価格で受け付けてくれた。
漸くチェックイン。716号室。デポジットで2泊分、RP1,379,400(約11,690円)をクレジットカードで支払い。1泊約5,850円。

ホテルの「イビスIbis」は、アコーホテルグループのエコノミーにカテゴライズされているが、3ツ星だ。
今回の旅行を考えた時、どの程度のホテルにしようかと考えた。
実は今回の旅行は、20数年ぶりの「ひとり旅」なのだ。もっと若い時はインドやパキスタンから韓国、東南アジアの国に行っていたが、色々な理由で行かなくなってしまった。そしてその間に、私自身も大きく年を取って仕舞った。
いままた「ひとり旅」を再開することにして、いきなりのバックパックにゲストハウスは無理だろうと思い、小型トランクに中級ホテルを選んだのだ。

716号室は簡素だが大きなダブルサイズのベッドがある。作りはいかにもビジネスホテルだ。
トイレには東南アジアでお馴染みの、手動式だがお尻を洗うシャワーが付いている。これが有難い。
昔のゲストハウスでは、シャワールームに日本の和式に似た便器が置かれ、部屋の隅に水槽があって、お尻荒い用の手桶が浮かんでいた。この手桶で後ろから水を流しながら、左手でお尻を洗うのだ。旅行者は不慣れで、飛び散った水で、狭いシャワールームはいつもびしょびしょだった。あの当時、こんなお尻を洗うシャワーがあったら良かったけど。

早速パスポートと現金を備え付けのセーフティボックスに入れようとしたが、操作方法が良く分からない。ボタンを押しているうち、ガッシャと閉まって仕舞った。仕方ない、夕食後に、説明書を見ながらやり直してみよう。

ホテル・イビス・アルカディアの部屋。ビジネスホテルだ。

トイレにはお尻洗い用のジャワ―付き。

疲れたので夕食は、ホテル近くのレストランを探す。
部屋のWi-Fiを使って、iPhoneでグーグルマップを開き、ホテル周辺のレストランを探す。するとすぐ近くに日本食レストランがあるらしい。そこに行くことにしよう。

<インドネシアに着いて早々、日本食レストランで「秋刀魚の塩焼き」夕食⁇>

ホテル前のジャラン・ワヒッ・ハシム(Jl.Wahid/Hasyim)通りに出て、まだ薄暮の通りを左に行くと、数軒先に日本食レストラン「MIDORI」の看板が見えて来た。本当に直ぐ近くだ。
通りに面した駐車場を抜けて建物の階段を上がると、2階のマッサージ屋の隣が入口だ。

ドアを開けて入る。中は日本人やインドネシア人などで満席だったが、運よくカウンターに1席空いていて座ることが出来た。
周囲の客は殆どが酒を飲んでいたが、私はメニューの中から、秋刀魚の塩焼き、味噌汁、ほうれん草のお浸しを頼む。あとお茶だ。せっかくインドネシアに来て、いきなり「秋刀魚の塩焼き」はどうかと思ったが(笑)、美味しかった。Rp136,290(約1,155円)。

MIDORIの秋刀魚の塩焼き定食。ジャカルタ最初の夕食だ。

レストランを出て通りまで戻ると、既に暗くなった路上に、行くときにはまだ無かった沢山のワルン(Wrung 屋台)が歩道を埋め尽くしている。
こういうところで食べても良かったなぁと思いながら、でもまだ直ぐにはお腹が受け付けないかな。

屋台の間を抜けて、赤・青・黄色のカラーの目立つ看板のコンビニエンスストア(インドネシアでは「ミニマート」と言うらしい)「インドマレット」(Indomaret)に入り、2Lのペットボトルの水とキットカットを買う。Rp.14,100(約120円)。

キットカットといえば、昔行ったパキスタンのほぼ中央にある地方都市、パンジャーブ州のムルタン(Multan)で病気になり、万が一のため国際空港のあるラホール(Lahore)まで行こうと「フライングコーチ」(パキスタンの長距離バス)の乗り場に行ったときだ。食欲など全くなかったが、何かの足しにと近くの売店で買ったのも何故かキットカットだった。不思議だなァ。

その時インドとパキスタンを旅行中だったが、当時インドはまだ1947年の独立前から続く「スワデーシーSwadeshi」運動」(独立前のイギリス製品ボイコットから始まった国産品愛用運動)や、その後の政府の輸入代替工業化政策のせいで、乗用車は古色蒼然としたアンバサダーが普通のタクシーだったり、欧米的な製品や世界のどこにでもあるファストフード店などが何処にもない、一種独特の社会だった。
一方、一歩パキスタンに入ると、一見ムスリムの戒律が厳しそうな社会だが、道路には欧米の車が普通に走っていて、街にはピザハットの店もあるなどまるで違っていた。そこで普通に日本で売っているキットカットを見つけて、つい買ってしまったのかもしれない。
旅に出ると、日常では埋もれていた色々な思い出が、まるで昨日のことのように蘇る。

部屋に戻ってシャワーを浴びる。此処はムルデカ広場(独立広場Lapangan Merdeka)に近く、真ん中に聳える独立記念塔「モナス」(MONAS Monumen Nasional)の上の炎を現したモニュメントに、オレンジ色の灯りがともっているのが見える。
あの塔の台座には、1945年8月17日スカルノ(Soekarno)が読み上げたインドネシア独立宣言文が収められているそうだ。
しかしオランダからの独立を宣言してから、1949年ハーグ協定で独立が承認されるまで、インドネシアの人々には4年間も独立への試練の時代が続いたのだ。

ホテルの窓からムルデカ広場のモナスが見える。

Wi-Fiを使ってインドネシアでも「ポケモンGO」が出来るのか試すと、出来た。早速ピードルを捕まえる(笑)