<19日目ー2>
2018年 6月1日 金曜日 ブリンディシ 晴れ 暑い。26度。
<憧れのブリンディシの旧港>
11:15ごろ、とりあえず行ってみようと、スタシオーネからバックパックを担いで、駅前から延びるCorso Umberto 1 通りを進み、Piazza Cairoli広場の環状交差点を左に曲がって、Via Palestro通りを進み、少し上り坂の道を何回か曲がって、15分くらいでVia Armengol通りに面した今晩の宿B&B マーレ・ノストレム(B&B MARE Nostrum)に着く。
外見は3階建ての、石作りの旧い普通のアパートだ。扉には名前の書いたプレートが付いている。此処で間違いない様だ。
呼び鈴を押す。出ない。もう一度押す。すると別の扉からオーナーらしい若い男が出てきた。
良かった‼︎
チェックインは13:00からだというので、荷物を預かって貰う。
宿に荷物を預けて、ブリンディシの散策に出る。
石造りの街並み、石畳み、狭い道路にびっしり駐車した車。いかにもイタリアらしい。
宿の突き当りのVia Gionanni Yarantini通りを海岸に向かって下って行く。
突き当りにCathedral of the Visitation and Saint John Bapistと言う大きなカテドラルがある。丁度結婚式をやっていたようで、新郎新婦や大勢の人が扉の前に集まっていた。白い大きなバルーンや、リボンで飾られたマゼラッティが横に駐っていた。
カテドラルの門のアーチを潜ってVia Colonne通りを更に下ると、前に海が開けてくる。
左手に古代ローマ時代、首都ローマから続くアッピア街道(Via Appia Antica)の終点を示す白いColonne Romaneの石柱が建っている。
大理石の白い階段を降ると、青い海を抱えたブリンディシの港が広がっている。
2000年以上前、ローマのカエサルもポンペイウスも、東方やギリシア、エジプトに向かう時は皆この港から出て行ったのだと思うと不思議な感慨を覚える。
近代になっても、ドイツ留学を終えて極東の島国「日本」に帰る森鴎外「舞姫」の主人公太田豊太郎だって、此処から海路日本へ帰国の途に就いたのだ(作者の鴎外のドイツ留学からの帰途(1888年)はマルセイユからだったが(笑))。
彼が此処から船出したのは、スエズ運河に近かったからだろう。
因みにスエズ運河は1869年11月に完成している。これによって、地中海のポート・サイドから紅海のスエズ、アデンまで船で航行することが出来るようになった。
ヨーロッパからアジアへ向かう海路は、これによって従来の南アフリカの喜望峰を回るルートは勿論、スエズ開鑿以前の、例えば1867年パリ万博に訪欧使節団として派遣された徳川昭武ら一行が使用した、スエズまで船で来て、此処からアレクサンドリアまでは汽車に乗り換えて移動し、またアレクサンドリアから船に乗換える様なルートより遥かに利便性が良くなった。
1873年にマルセイユから帰国の途に就いた明治維新後の岩倉使節団は、開通なったばかりのスエズ運河を通っている。
実はギリシアのパトラ(Patra)からイタリアに向かうフェリーは、交通の便の良いバーリ(Bari)行きとこのブリンディシ(Brindisi)行きがあった。私が敢えて、その先の交通の便の悪いブリンディシを選んだのは、この港をひと目見たかったからだ。しかも海から上がってこの地を踏みたかったからだ。
陽射しを浴びてきらきら光る海を眺めながら、いまここに立っているなんて夢の様だ。
港に沿って、椰子の木の並木が連なる遊歩道を歩く。すでにフェリーなどの大型船は、今朝着いた新港?の方に移っていて、この港にはいまは小型の船やヨットなどが舫っている。それを見学しに小学生が赤や緑のカラー帽子を被って集まっている。湾の対岸には「イタリア人水夫記念碑(Monumento al Marinaio d`italia Burindisi)の塔が見える。
遊歩道沿いには、路上にレストランのテーブルも並べられているが、いかにも高そうな店ばかりだ。
暫らく海岸を散歩して、戻ろうとColonne Romaneの石柱が建っている大階段迄来ると、先程カテドラルで結婚式を挙げていた新郎新婦の写真撮影が始まっていた。白いウェディングドレス姿の新婦が、映画のシーンの様に階段の上でポーズをとって、それをカメラマンが撮影している。何と!空にはドローンも飛んでいるゾ!
<朗報!中華料理店発見>
朗報!だ。中華料理店発見‼︎
Via Gionanni Yarantini通りを戻って行くと、右手にあった。石造りの建物に穿たれた入口のアーチに、不釣り合いな赤地に金字で「周紀飯店 ZHOU」と描かれている。
高そうだったけど、誘惑に抗しきれずに入ってみる。
フライドライスと豚肉のオニオン炒めを頼む。
中華としての味は今一歩だったが、でも19日ぶりのお米、醤油味。完食する。
でもトルコ、ギリシア料理に比べて量は少なめ。お米を食べるアジア人は小食なのかなぁ。
でもお腹の方は今日一番嬉しい瞬間だった(笑)。余り喜んで、いくらだったか忘れて仕舞った。高かった記憶しかない。
<ホテルに着いた!>
13:00、宿の手前のスーパーで水を買う。2Lで、0.8€(約110円)。
B&B マーレ・ノストレムに到着。
呼び鈴を押し、訪いを入れる。出て来たオーナーの若い男性は、部屋は5室あるが、私の部屋はちょっと離れていると案内される。
出て路地を一本違えた場所にある二階建ての石造りの家だ。周囲の家々と同じく、道路に面して扉があり、2階にはバルコニーが張り出している。日差しが入らず薄暗い階段を上がった左側の部屋だ。
年季の入った木製のドアに付いているのは旧そうな錠で、7,8㎝位ある長い鍵でガチャガチャと奥のロックを回して入る。
室内は地元の若い人が金稼ぎに自分のアパートをB&Bとして貸し出している様な、普段使いの部屋。
入った時は、オーナーの兄貴だという人が、シャワールームのカーテンを付けているところだった。それもカーテンレールが斜めに歪んだままで、何度も直そうとするが上手くいかないらしい。
朝食も好きに作ってと、ビスケットやジャム、ヨーグルトなどが置かれている。エスプレッソ・コーヒーを入れる器具もある。Booking.comにあった「朝食OK」はこのことだな。
次いでブリンディシの地図を広げて観光の案内をするので、大丈夫だと言って断る。
宿代は現金とのことで、40€(約5,400円)払う。
スマートフォンでパスポートの写真を撮る。普通のホテルのコピーの代わりか。レシートをくれと言うと、後でと。
明日のチェックアウトは鍵を刺したままにしておいてくれと。ずっと喋り続ける調子の良い男性だ。
部屋はワンルームで、広いが土足で歩き廻るので、薄汚れた感じだ。
奥にソファーとシングルサイズのベッドが壁に付けて置かれていて、窓際にはダイニングテーブル。
左手のドアの奥にトイレやシャワールーム。
これは狭く、ちゃんと洗いたい日本人には窮屈なサイズだ。さっき付けていたシャワールームのカーテンは下に長すぎ、内側に織り込むと床スペースの半分位が隠れて仕舞う。仕方なく、提げているバーをもう少し高く調節する。
でもイタリア人ってこんな部屋に住んでいるんだ、そう思うと面白い。
夕方になって、お昼に水を買った宿の直ぐ近くの小さなスーパーに行く。ここも現代的なガラス張りの店舗ではなく、周囲と同じ石造りの建物だ。
此処ではパニーニ(Panini)は売って居ないので、少しでも腹に溜まるもの、バナナ、サラミ、ヨーグルトなどを買う。2.65€(約360円)。
帰って来て部屋に入ろうとするが、部屋の入口は階段の先で陰になって暗く、手探りで鍵穴に鍵を差し込むが、錠が穴の先なので鍵先がなかなか上手く入ってくれない。少し焦るが、漸く重い感触でガシャッ!と開いてホッとした。
明日はバーリ(Bari)に鉄道で移動するつもりだ。