歳をとっても旅が好き

海外ひとり旅の記録?いや記憶かな

ミャンマーひとり旅(2017年) <32> まだ11日目 仏様のお告げの街マンダレーは、いま?

<11日目ー2
2017年 6月1日 木曜日 マンダレー 晴れ 暑い。34度。

<今日からの宿・ナイロンホテルに到着>
15:30頃、空港からのシェアタクシーは、最後の客をホテルの前で降ろしてくれた。
今日からの宿、ナイロンホテル(NYLON HOTEL)にcheckin。
ホテルは25th.St.と83rd STの交わる角にあった。旧王宮の西側エリアだ。

ホテルの外観は7階建ての細長いビル。部屋の作りは壁がタイル張りで、備品もプラスチック製。Reception横のダイニングも、金ピカの飾り。中華風の宿だ。
Receptionの若い女性にBooking.comの予約票とパスポートを見せ、3日間の宿代US$81を米ドルの現金で払う。一泊US$27だ。
ここはもうホテルじゃ無く、ゲストハウスの範疇かな。部屋は1002号室。10階ではなく、1階だ。

今日からの宿、ナイロンホテル

ホテルは25th.St.と83rd STの交わる角にあった。

部屋はエアコン付きで割合広く、ベッドも大きいが、調度品は簡素なもの。シャワールームにはバスタブまであるが、汚れが取れないみたいで黒ずんでいる。バスタブにお湯をはって浸かりたい気分にはならない。
しかしモウラミャインでもヤンゴンでも使えなかった日本から持って来たB型プラグが、マンダレーのコンセントにはぴったり嵌った。これにはびっくり。

簡素な設えの部屋、どこか中華風

荷物を出すのもそこそこに、今晩の夕食を摂るため街にでる。
レセプションでレストランの有る方角を聞いて歩き出したが、直ぐ迷ってしまった。
ホテルの周囲は、建築資材や室内装飾、鋼材屋、銀行、オートバイ屋などの小さな商店や家内工業の店ばかりで、食べ物屋は屋台位しかない。
ムスリムのモスクもある。

暑さと空腹でフラフラだったが、行けども行けども、此処なら入れそうと思えるレストランは無い。
遂に旧王宮前を東西に延び、西はエーヤワディー河に至る26th通りと、南北に通った84th通りが交わる、茶色の時計塔の有る街の中心地、ゼーチョー・マーケット(Zeigyo Market)迄歩いて来た。
ミャンマーでは、街の中心地には必ず時計塔があるらしい、

ホテル周囲は家内工業の店が多い

時計塔のある町の中心地、ゼーチョー・マーケット(Zeigyo Market)側

市場の一角に入ってみる。
しかし此処は地元の野菜などを扱う市場の様で、既に商いを終えて、千切れた菜っ葉や溢れた豆、積み重なった木の空き箱などが残っているだけだ。その間を、脚の置き場を捜しつつ人々が慌しく行き交っている。
市場見学なら良いが、私はお腹が空いている。
すでに16:00を過ぎ、日暮れ前の暑さでこれ以上は無理と、ホテルに戻りながらパンか何か買おうとするが売店も見当ら無い。
仕方なく今日は空腹のまま、水を飲んで寝る。しかし、昼にクロワッサン食べといて良かった(笑)

<マンダレーMandalay建設は仏様のお告げ>
マンダレーは、エーヤワディー河の東側に広がった、ヤンゴンに次ぐミャンマー第二の都市だ。
30年ぶりに実施したという2014年の国勢調査では、人口は173万人。マンダレー地方域(Mandalay Division)の区都で、ビルマ最後の王朝、コンバウン朝の首都だった町だ。

市内は碁盤目のように区割りされていて、どの通りにも番号が付いている。ヤンゴンのダウンタウンの様だ。
しかし、マンダレーはヤンゴンや他の町の様に、もともとあった小さな集落や村がこの様な大都市に発展していった訳ではない。初めから人為的に作られた都市なのだ。

マンダレー建設当時のビルマ(ミャンマー)は、1852年に始まった第二次英麺戦争の後で、イギリスに占領されたエーヤワディー・デルタの下ビルマを失った後だ。
1859年5月23日、ミンドン・ミン王が受けた「仏陀の予言」に従って、標高236mのマンダレーヒルの麓に建設されたのがマンダレーだ。
それまでの首都だったアマラプラ(Amarapura)から遷都されて、コンバウン朝の新しい首都となったのだ。

ミャンマーの国土のほぼ中央に位置し、エーヤワディー河の東岸、ヤンゴンの北716Kmの中央乾燥地帯という平野にある。
マンダレーの呼び名は、古代インドの言語パーリ語で「Mandala(平原)」や「Mandare(幸運の地)」からきているらしい。
マンダレーヒルを背に王宮があり、南方に市街地が広がっている。地形的には北東部から南西部にかけて緩やかに下る傾斜地になっている。

王都の都市計画は、前の首都アヴァ(Ava 現インワ)やアマラプラを参考にしたと言われている。
東西に12、南北に12のサブブロックに分けられ、全部で144のサブブロックで構成されている。王宮はこの中央に16ブロック分で建設され、四辺形の一方の長さは約2Kmだったと言われている。現在でも残っている碁盤目のように区割りされている市内は、建設当時の都市計画の賜物だった。

碁盤目の様な町割り


<いまは中国貿易の拠点>
1988年の軍事クーデターとそれに続く軍事政権に対し、1990年代に欧米各国が経済制裁を科してから、中国人がマンダレー経済の支配を強めて、現在ではミャンマー最大の中国資本の拠点となっているらしい。

地理的にもマンダレーは国土のほぼ中央にあり、南のヤンゴン、首都ネピドー(Nay Pyi Taw)から来る中央南北回廊がマンダレーを通って、北のミッチーナ(Myitkyina 旧ミートキーナ)に続いている。
また東西方向では、東はラシオ(Lashio)、ムセ(Muse)を通って中国雲南へ抜ける道、西はタムー(TatMu)を通ってインドのインパール(Imphal)へ抜ける道の分岐点に位置している。
特に中国雲南省へ抜ける道は、旧援蒋ルートの「ビルマルート」の一部であった「ビルマ公路」で、現在も対中貿易に支えられた軍事政権が作った有料道路が延びている。

ムセを経由する中国とミャンマーの国境貿易額は、2016年1年間で53億ドルに上り、ミャンマー貿易額全体の18.4%で、物流の大動脈となっており、中国の「一帯一路」構想の一部ともなっているらしい。
2000年代になって、国境で賄賂を払ってミャンマーの国民証明書を手に入れ、ミャンマーに移住してくる中国人が増えて、元からの住民が追い出される事態も発生しているという話もあるようだ。

<マンダレーのちょっと物悲しい現実>
こんな発展著しいマンダレーだが、下水を処理する下水処理場が無いらしい。家庭や商店、工場、公共施設、もちろんホテルやゲストハウスからの下水は、各々の場所で、郊外なら穴掘りトイレ、街中や工場、ホテルでは汚水浄化槽などで処理されているらしい。

また、幸いマンダレーに来てからまだ遇っていないが、この時期電力不足や計画停電で、停電が頻繁に起こるらしい。
マンダレーでは酷暑期の4月、5月に電力需要が最大となるが、この期間は雨季の直前のため水不足で、ミャンマーの発電はほぼ全て水力発電(約70%)によるので、発電の出力が最小となってしまうのが原因らしい。
マンダレー市には発電所はなく、発電所に直接連係された変電所も無い。
しかしマンダレーは、ベンガル湾で開発されている「Shwa」天然ガス田から、ガスを中国へ送るパイプラインが通っているはずだが、自国民のためのガス発電所はどうして作らないんだろう。